大阪冬の陣で勝敗を決定づけたカルバリン砲。
そのカルバリン砲を家康軍が発射した備前島砲台と
推測される地に行ってきました。
徳川家康は、豊臣家滅亡を考え、1614年に大坂冬の陣を起こします。
家康は、大阪城の対岸、寝屋川の中州にある備前島(びぜんじま)に
大坂城攻撃用の砲台を建設します。
下の写真の赤で囲んだ部分です。右には大坂城があるのがわかります。
おっさんは、砲台があったのではないかと言われる場所に行きました。
寝屋川を挟んだ大坂城の北側です。
カルバリン砲が設置されたのはこの周辺ではないかと推測されます。
現在はここ陸続きとなっていますが、当時、備前島は、小島だったそうです。
目の前には大坂城が見えます。近いです。
ここから大阪城を見ると・・。近いのがよくわかると思います。
ここにはイギリス製のカルバリン砲4門とセーカー砲1門、オランダ製の大砲12門の
ほか、大筒100門が配備されます。
そして家康は、ここ備前島から大砲を打ちまくりますが、大阪城はそう簡単には陥落しません。
しかし絶え間なく大砲を撃ちまくることは、豊臣方を精神的に参らせる目的もありました。
(カルバリン砲とは)
家康がイギリスから購入したもので、14キログラムの砲弾を6.3キロメートル飛ばしたと言われます。
ヨーロッパでは戦艦に乗せ砲撃する大砲としても使われていたそうです。
(大阪城天守閣に玉が直撃)
大坂城はなかなか陥落しません。
しかし12月16日、事件が起きます。
数発の砲弾が大阪城の本丸まで届いて櫓を破壊し、仕えていた女性の数名が命を落とします。
これがきっかけで淀殿は家康との和睦を決意します。
家康は和睦条件を破棄し外堀と内堀の両方を埋め立ててしまいます。
堀が埋められたことで大阪城本丸はその防御力を失い、翌年の大阪夏の陣で豊臣家は
滅亡します。
<<備前島への行き方>>
大坂城から歩いて15分程度
石碑も何もないのでわかりにくいため解説します。
大坂城を北上し大きな陸橋の大阪橋を渡ります。
橋を降り振り返ります。
すると正面に大坂城が見えるので道路を渡り、右に進みます。
目印は、ローソン片町一丁目店、日産大阪営業所UCAES天満、
この2つが見えたら土佐堀通り(交通量が多いメーンストーリー)の反対側にある
裏道に行き、川沿いに降ります。目の前には大坂城が見えています。
大坂城を正面に見て左に川沿いの小道を進むと寝屋川が2つに分かれる場所が見えてくるのでそのあたりです。