1615年、豊臣秀吉が建てた大阪城には、大坂夏の陣で攻められます。
そして秀吉の長男の秀頼と、その母淀殿が自害し豊臣家は滅亡します。
大阪のシンボルの1つと言えば大坂城です。
大坂城を訪れた時に是非とも寄って欲しい場所が2つあります。
「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑と「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」です。
江戸時代初期の1615年に起きた大坂夏の陣で、大阪城は徳川軍に攻められ、
追い詰められた豊臣秀頼と淀殿が、大阪城天守閣の北側にある山里丸にあった櫓に
ひそみ、自害したという記録があります。
淀殿と秀頼が自害したという地には「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑が立っています。
【 「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑について書いたブログはココ】
(「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」)
「秀頼 ・淀殿ら自刃の地」碑の近くには「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」があります。
【「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」について書いたブログはココ】
(淀殿と秀頼の人生とは・・)
おっさんは大坂城で、この地で1615年に命を落とした淀殿と豊臣秀頼の人生を考えて
みました。
まず、淀殿。茶々と呼ばれていました。
母親のお市の方は織田信長の妹。つまり織田信長は伯父さんです。
1582年に、信長が本能寺の変で死亡すると母親のお市は、信長の家臣の柴田勝家と再婚します。それに伴い茶々も柴田勝家のいる福井に行きます。
そして柴田勝家が秀吉に滅ぼされる時に、逃れてきます。
茶々は1588年に、天下人になっていた秀吉の側室になります。
翌年、長男・鶴松を生みますが鶴松は若くして急死、その後次男・秀頼が生まれます。
(生まれながらの天下人・豊臣秀頼)
豊臣秀頼は1593年、父・秀吉が57歳の時に生まれます。
しかし1598年、秀吉は62歳で死去します。
この時、跡取りの豊臣秀頼は5歳の誕生日を迎える直前でした。
秀吉の死後、徳川家康は天下取りにむけ、本格的に動きます。
1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成勢を破り、1603年には、家康は征夷大将軍に
就任し江戸幕府を開きます。
ちょうど同じ年に秀頼は家康の孫の千姫と結婚します。
この千姫は、秀頼の母親・淀殿の妹・江と2代将軍家忠の間にできた子供で、
これは従妹同士の結婚でした。
1605年には家康は将軍の座を息子の家忠に譲り、徳川政権の体制を固めていき,
豊臣家の扱いは軽んじられていきます。
(豊臣家滅亡へ)
1614年には、方広寺鐘銘事件が起きます。
秀頼が命じて作らせた京都の東山にある方広寺の鐘に刻まれた文字「国家安康」
「君臣豊楽」が徳川家康の「家」と「康」を分断し、その一方で豊臣家の繁栄を祈願していると言い出したのです。
それをきっかけに家康は大坂城を攻め(大坂冬の陣)その後、大坂城の堀が埋め立てられます。
翌年1615年には、大坂夏の陣が起きます。
この時は、もう徳川の時代、豊臣に味方する大名は少なく、また堀が埋められてしまったため大坂城は攻められ落城します。
豊臣方は、徳川家康の孫で秀頼の妻である千姫を通じて秀頼の助命を嘆願しますが、
受け入れられず、豊臣秀頼と淀殿はここで自刃します。淀君50歳、秀頼は23歳でした。
なお、秀頼には側室に産ませた男子の豊臣国松がいました。当時8歳でした。
大坂夏の陣後に徳川勢に捕らえられ、引き回しのあと首を切られています。
淀殿と豊臣秀頼、2人の人生を振り返り、考えると戦国時代という激流に流され翻弄
された生涯、そして人が持つ運命などを考えてしまいました。
「秀頼・淀殿ら自刃の地」碑と
「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」にも
足を運んでもらいたいものです。
【大阪城公式HP】
【大阪城観光ガイド】
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