10月16日。
この日は平安時代の1018年に、
藤原道長氏が
”この世をば わが世とぞ思ふ望月の
欠けたることも なしと思へば”
という歌を詠んだ日です。
(4人の娘を天皇の妃に)
1018年10月16日に藤原道長の娘の威子が、後一条天皇に嫁ぎます。
この祝いの席で、藤原道長は1つの歌を詠みます。
「この世をば 我が世とぞと思う望月の かけたることも なしと思えば」。
日本史の教科書に載っている有名な歌です。
さらに翌年、1019年に、道長の息子の頼通は貴族として最高位の関白になります。
整理しますと・・・
彰子(しょうし)は一条天皇に嫁ぎました。
姸子(けんし)は三条天皇に嫁ぎます。
一条天皇と彰子のあいだに生まれた後一条天皇には、威子(いし)、
後一条天皇の弟の後朱雀天皇には、嬉子(きし)がそれぞれ嫁いでいます。
こうして天皇家と深い婚姻関係を結ぶことで藤原道長・頼通は、一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇の時代に勢力を保ちます。
自分の娘を天皇に嫁がせて皇室と絆を深め、朝廷の権力に食い込む戦略は、
当時の常とう手段です。
これまでも娘を天皇の妃にした人は蘇我氏などがいますが、自分の娘を3人以上も
この時、道長にとって、「天皇たちは娘婿姉=義理の息子」」になり、
生まれてくる孫は皇位継承者。
さらに息子は関白という朝廷の実力者・・・権力者としては、もうたまりませんよね。
(宇治殿と呼ばれた藤原道長)
藤原道長が関白だったころに別荘として所有していたものです。
それにちなみ道長は「宇治殿」と呼ばれていました。
道長の死後に息子の頼通が引継ぎ、手を加えて寺院になります。
これが平等院の始まりと言われています。
(朝廷で勢力を拡大する藤原氏)
藤原氏は645年に起きた乙巳の変で中大兄皇子と共に蘇我氏を討った藤原鎌足以来、
朝廷との結びつきを深めてきました。
【藤原鎌足について書いたブログはココ】
藤原氏は、9世紀半ばごろからは他の一族を退けながら力を伸ばし、娘を天皇に嫁がせ、その子を天皇にすることを繰り返しました。
天皇が幼いときは「摂政」、天皇が成人すると「関白」の職に就き天皇に変わり政治を動かしたり、天皇の政治に口を挟んできました。
そして11世紀には、朝廷の高い位を藤原一族で独占するようになります。
その栄華の頂点が藤原道長・頼通の頃です。
【藤原頼通について書いたブログはココ】
(この時代に糖尿病で死す!)
1027年に藤原道長は糖尿病と心臓病を患い法成寺(ほうじょうじ)の阿弥陀堂で、
阿弥陀如来の手を通した5色の糸を握って極楽浄土に生まれ変わることを祈って
62歳で亡くなっています。
この時代に「糖尿病」ですよ。贅沢病と言われる「糖尿病」でなくなるんですよ!
いかに道長が贅沢な暮らしをしていたか、庶民とはかけ離れた食事をとっていたかが
推測できますよね。
(藤原氏のかげり。。皇子が生れない!)
順風満帆に見えた藤原氏ですが、藤原家にも暗雲が立ち込めてきます。
道長の息子の頼道は、一条天皇のいとこ・降姫女(たかひめじょおう)を
正室に迎えます。
そして娘・寛子が生まれ後冷泉天皇に嫁がせますが、大きな問題が浮上します。
御冷泉天皇に嫁いだ寛子が皇子に恵まれません。
天皇に嫁いだ娘が男子を産まないということは、すなわち自分の孫を天皇にできない=天皇との関係が薄くなる=朝廷での発言力や影響力が弱まるということにつながります。
という事で、
10月16日は
藤原道長が「この世をば・・・」の歌を詠んだ日です。
なお、宇治平等院鳳凰堂は、10円玉に刻まれていることでも有名です。
【宇治平等院鳳凰堂公式HP】
<<宇治平等院鳳凰堂への行き方>>
JR京都駅から宇治駅下車、徒歩10分
拝観料:大人:600円、中高生400円、小学生300円