日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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10月19日 蒙古襲来

1274年の10月19日、

博多湾に元の大船団が

押し寄せてきました。

第1回目の元寇文永の役です。

 

 

元寇は、日本と外国との初の敵国侵略による本格的集団戦争で鎌倉時代に起きました。

 

当時、世界最強をうたった大帝国・元が、日本に侵略してきたのです。

元寇は、この文永の役と7年後の1281年に起きた弘安の役の2回ありました。

第1回の蒙古襲来が1274年10月19日、文永の役です。

 

武力行使に出たフビライ

第1回目の文永の役が起きる前に元の皇帝・フビライジンギスカンの孫)は、

日本に何度も服従を迫る国書を送っていました。

しかし時の鎌倉幕府の権力者の8代執権北条時宗は返事をしません。

そこでフビライは日本攻略を行います。いわゆる武力行使です。

元の大群は壱岐対馬を滅ぼしたあと1274年10月19日に博多湾に大集結します。

 

(スタイルが違う戦い)

そして、翌20日の早朝、元軍が上陸を開始しし、浜辺での戦いが始まります。

しかし、ここで日本軍は戸惑います。元と日本とでは戦闘方法が全く違うのです。

当時の日本では、武士が戦う時は、まず、開戦の合図となるか鏑矢(かぶらや)を

放ちます。

さらに、武将が前に出てきて「やあやあ我こそは・・・」と名乗りをあげ、

そしてお互いで一騎打ちをする・・・というのが正式な鎌倉武士の戦の方法でした。

一方、元軍は銅鑼を叩き、それを合図に集団で襲い掛かる集団戦法で、全く戦闘スタイルが違います。

日本の武士が名乗りを上げて出てきたとき、、元の兵士は「何しているの?」と思ったでしょうし、集団で襲い掛かり、倒していき、次々と進行してきます。

鎌倉武士は、元の戦い方に「元、卑怯なり」と思う間もなく次々と襲われていきます。

 

(毒矢と「てつはう」)

元には日本軍にはない兵器がありました

元軍の矢は日本の物より細く短い矢なので飛行距離が長く、また先に毒が塗ってありました。毒矢を受けた武士は苦しみます。

さらに、鉄の玉に火薬をつめて飛ばす「てつはう」という炸裂爆弾のような武器も持っていました。

蒙古襲来絵詞という絵巻物には、この「てつはう」がさく裂し、馬が驚く様子が描かれています。

 

戦闘スタイルが違う戦いに日本軍は押しやられ、博多の町は陥落し日本軍は大宰府まで退却します。

ところが、一夜明けた翌21日、・・・博多湾を埋め尽くしていた元の大船団が、

姿を消していたのです。

暴風雨、俗にいう「神風」が吹き、元の船が全滅したのです。

 

(他にも侵略を受けた)

四方を海に囲まれ朝鮮半島とも地理的に近いため日本は昔から何度も外国の勢力による武力侵略を受けています。

昔は国境の認識も薄く「腹が減ったから船で向こうに行き略奪しよう」という意識が

あったのかもしれません。

特に壱岐対馬は中国大陸や朝鮮半島に近いという地理的な要因からか、

よく侵略されています。

この元寇以外にも外国が攻めてきた例があります。

 

主なものを挙げると

貞観の入寇:869年6月、新羅の海賊が博多に上陸し、豊の船を襲撃。

寛平の韓寇:893年と翌894年に熊本、長崎、壱岐対馬を襲撃。

長徳三年(南蛮の入寇):997年、高麗が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅などを襲い、民家に火をつけ、略奪を行い男女を拉致。

刀伊の入寇(といのにゅうこう):1019年に女真族壱岐対馬を襲い、さらに筑前肥前を侵攻・略奪。

 

そして本格的に外国の勢力が国を挙げて攻めてきたのが元寇です。

 

・ということで10月19日は

元が日本を襲撃した日です。