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10月26日 観応の擾乱勃発

 

室町時代初期の1350年10月26日、足利尊氏の弟の足利直義が、室町幕府の執事・高師直を攻撃しようと挙兵しました。これが観応の擾乱の始まりです。

 

(尊氏・師直VS直義)

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、足利政権内部に起きたゴタゴタで「初代室町将軍の足利尊氏、幕府執事の高師直」と「足利尊氏の弟直義」との対立、さらに南北朝との和睦、反目が重なり、実に無茶苦茶です。

 

では流れを見てみます。

室町幕府は1338年に足利尊氏征夷大将軍に任命され、正式に発足します。

室町幕府は、全国の武士を支配する武家の棟梁が征夷大将軍足利尊氏で、

政治は弟の直義が行うという状況でした。

しかし直義は幕府執事の高師直との仲がよろしくありませんでした。

 

事件が動いたのは尊氏が京都を離れた時です。 

 

足利尊氏は、九州にいた足利直冬を追討するため出陣し京都を留守にします。

この直冬は、実は尊氏の本当の息子でしたが、尊氏と対立し弟直義の養子になって

いました。ですからこれは実の親子対決です。

 

そして1350年10月26日、尊氏不在の中、直義は、なんと敵方のはずの南朝へ走り

和睦をします。

そして1351年の2月、高師直を倒して一族を滅亡させ、室町幕府の要職に復帰します。

足利兄弟は和睦したものの幕府内で尊氏派と直義派の対立は続き、今度は、逆に尊氏が

南朝に和議を申し入れし1351年10月24日に南朝に降伏します。

これにより、北朝崇光天皇(すこうてんのう) は廃止され、南北朝は統一されます。これを 正平一統(しょうへい いっとう)と言います。

 

そして足利尊氏・義詮親子は、南朝から「直義追討令」をもらい、直義を攻めます。

直義は京都を逃げ鎌倉へ入りますが、1352年正月に足利尊氏に降伏します。

そして1か月後の2月26日に、直義は尊氏に毒殺されます。(一部では毒殺ではないとの説もあります)

これで一連の観応の擾乱は収まります。

 

(その後) 

足利兄弟の内紛は高師直と弟・直義の死ということで落ち着きました。

しかし、朝廷では南朝派が尊氏などの北朝勢の排除を画策します。

そして正平一統は、わずか4か月で終焉を迎えます。

 すると九州にいた足利直冬が反尊氏として決起します。

1355年には直冬は南朝と結んで京都を奪回しますが、すぐに追放されます。。

 

とまあ、足利兄弟、足利親子の対立、南北朝の対立・和解・分断が起き、

「敵が味方になったり 味方が敵になる」などややこしい事が何度も起きます。

 

室町幕府初期からのこのゴタゴタぶり。。。この室町時代が、戦国時代があり、さらに将軍不在期間が何度も起きるなどの将軍の権力がぜい弱で実に不安定な室町幕府の未来を予測させるものでした。

 

【足利将軍の不在期間を書いたブログ】

<関連>

室町時代の最盛期を築いた足利義満について書いたブログ】

足利尊氏征夷大将軍就任について書いたブログ記事】


・・・ということで

10月26日は観応の擾乱が始まった日です。