日本史の教科書で見かける坂上田村麻呂。
この人が桓武天皇により征夷大将軍に任ぜられたのが平安時代初期の797年の11月5日です。
(蝦夷の抵抗)
平安時代、朝廷は日本全土を勢力下においていたわけではありませんでした。
東北地方に住み朝廷の支配に従わない人を蝦夷(えみし)と呼び、しばしば貢物を収めるよう強要し、時には武力行使も行っていました。
彼らは言葉や習慣が異なり、いわば独立国家みたいな存在でした。
蝦夷の人たちは律令国家づくりを目指す朝廷に対したびたび反乱を起こしていました。
現在の岩手県奥州市付近の胆沢地方を中心にした蝦夷の指導者阿弖流爲(アテルイ)もその1人です。
そこで、桓武天皇は征夷大将軍を東北地方に送り戦闘をしています。
789年には5万に大軍を送りアテルイの本拠地を攻めますが、撃退されます。
ちなみに征夷大将軍は、幕府をひらく権限を持っている人というイメージを持つ人も
多いと思いますが、本来は蝦夷(えみし)征討のための臨時の将軍、武家の総大将です。
征夷大将軍の文字を分解すると「征」「夷」「大将軍」で「蝦夷征伐の大将軍」ということです。
征夷大将軍として日本史の教科書に出てくる坂上田村麻呂ですが、実は彼は
征夷大将軍の2代目です。
初代の征夷大将軍は794年1月1日の元旦に任じられた大伴弟麻呂で、この時、
坂上田村麻呂は副将軍でした。
この年に平安京に遷都されますので、大伴弟麻呂が征夷大将軍に任じられたときは奈良時代でした。
797年、11月5日、坂上田村麻呂は2代目征夷大将軍に任命されます。
そして801年、4万の兵を率いてようやく胆沢地方を平定し、翌年胆沢城を築きます。
戦いに敗れたアテルイは軍を率いて降伏し京都に連れていかれます。
(坂上田村麻呂が清水寺を建立)
坂上田村麻呂は平安時代になった798年7月2日、京の都に清水寺を建立しています。
「阿弖流爲(アテルイ)母禮(モレ)之碑」というのがあります。
アテルイとモレは蝦夷の軍事的指導者で、坂上田村麻呂に降伏し、京都に連れられて
こられます。坂上田村麻呂は、彼らの命を助けるように頼みます。
しかし公卿会議で反対され結果的には除名嘆願は実らずに2人は、大坂の河内で
処刑されてしまいます。
【清水寺公式HP】
清水寺は、1994年(平成6年)にユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」のひとつ
として登録されました。
<<清水寺の行き方>>
京阪電車「祇園四条」駅・阪急電車「京都河原町駅」下車、
市バス「清水道」または「五条坂」から徒歩約10分
住所:京都市東山区清水1丁目294
・・・ということで11月5日は
です。