「あと1日違ったら・・・」皆さんも生きていくなかでそう感じたことありませんか?
「あと1日早ければ」「あと1日遅ければ」・・
今回紹介するのは、「あと1日遅ければ」・・・・。
太平洋戦争が終わる1日前1945年(昭和20年)8月14日、大阪で大空襲があり、
JR京橋駅にいた大勢の方が命を落とされました。
終戦の前日の午後1時の出来事です。
あと1日遅ければ・・・。
(京橋空襲)
大阪は、大規模な軍事工場があったため米軍の攻撃目標となり
1945年(昭和20年)3月13日に最初の本格的な空襲をうけ、
以後7回空襲を受けました。
そして8回目の空襲が終戦前日の8月14日に起きました。
およそ150機のB29が大阪を空襲します。
米軍の目標は大阪造兵廠で、1トン爆弾を700個投下します。
この空襲で造兵廠は壊滅、大坂城も被害を受けます。
米軍の目標の造兵廠の北東にあった京橋駅にも14日の午後1時ごろに
1トン爆弾4発が落下します。
その1つが京橋駅の城東線ホームを突き抜けて片町線ホームに落下します。
京橋駅ではちょうど、城東線の上り列車と下り列車の2本が入ったところでした。
多くの乗客が、空襲から避難し下の片町線ホームに集まっていました。
そこに1発の1トン爆弾が、落下して爆発。
避難していた乗客らが爆弾の直撃を受け人々は吹き飛ばされ駅舎も破壊されます。
この空襲での犠牲者は、身元が判明している人だけでも210名以上、他に身元不明の
犠牲者が500 - 600名以上いました。
当時は空襲などにあった時に身元を明らかにするため衣服に名前や住所を書いた布を
張り付けることが義務付けられていました。
しかし爆発の破壊力がすさまじく、遺体はそれが確認できないほど損傷していたそうで、正確な犠牲者数は不明です。
この空襲は「京橋空襲」「京橋駅空襲」と呼ばれています。
慰霊碑の横には、終戦から10か月後の京橋駅の写真がありました。
この破壊された写真が撮影されたのは終戦から10か月後ですよ!
空襲の破壊力がわかります。
【京橋駅爆撃被災慰霊碑に掲げられていた写真より】
(京橋駅爆撃被災慰霊碑)
現在、JR京橋駅の南口の道路沿いには、この時の空襲の京橋駅爆撃被災慰霊碑が
あります。
この慰霊碑は空襲から2年後の1947年(昭和22年)8月14日に建立されました。
慰霊碑の横には。。
また慰霊祭は空襲から10年後の1955年(昭和30年)から毎年8月14日に京橋駅南口で行われています。
さらに1984年(昭和59年)には城東ライオンズクラブが仏像を建立しています。
空襲は終戦のたった一日前。
「あと1日終戦が早ければ、京橋でも多くの人が亡くならずに済んだのに・・」。
そう感じます。
(終戦10日前の日程)
終戦までの10日間の出来事を見てみます。
8月6日 広島原爆投下
8月9日 長崎原爆投下
8月14日 日本政府 御前会議でポツダム宣言の受諾を決定
8月14日 午後1時すぎ、京橋駅空襲
8月15日 正午 終戦
太平洋戦争末期は、もう日本本土はほとんど焼け野原状態で、物資も不足し、
飛行機も軍艦も武器もマシなのはなくガソリンも枯渇していました。
もし、ポツダム宣言が出された7月26日に受諾していれば、空襲も原爆投下もなかったはずです。
事態を先延ばしにして犠牲を増やした形となり残念です。
<<参考>>
【同じように大阪空襲を扱ったブログ】
(機銃掃射の跡が残る石垣)
(大阪空襲で壊滅状態になった神社)
<<大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑への行き方>>