大阪城の駐車場から南へ約300m入った住宅地、住所で言うと大阪市中央区森ノ宮
中央2丁目12は、 豊臣秀吉の大坂城時代の大坂城三の丸にあたり当時この周辺には
戦国武将の屋敷がたくさんありました。
その武家屋敷の一つに細川忠興邸があり、その台所があったと伝えられる場所には、
現在井戸が残され、史跡となっています。
細川氏の官位が越中守であったことから、この井戸は「越中の井戸」ということで、「越中井」と呼ばれています。
なぜ、井戸が史跡なのか??
実はここ、細川ガラシャ夫人最後の地なのです。
(細川ガラシャは光秀の娘)
1582年に玉子の父・明智光秀は「本能寺の変」を起こし主君・織田信長を討ちますが、すぐに秀吉に討たれ死亡します。
そして細川忠興の正室であった玉子は、謀反人・明智光秀の娘ということで
丹後半島の奥地にある細川領内に幽閉されてます。
(軟禁の時、キリスト教と出会う)
秀吉の大坂城を建設と同時に、細川家の屋敷も城の三の丸に作られます。
玉子もそこに住むことを許されますが、外出を厳しく制限され外へ出る事がなかなか
許されない状況で軟禁状態という感じでした。
その幽閉時期にキリスト教と出会い、それきっかけで熱心なキリシタンになります。
そしてキリスト教の洗礼を受け、「ガラシャ」の名を授かります。
ガラシャには「恵み」や「恩寵」という意味があります。細川ガラシャの誕生です。
(細川ガラシャの壮絶な最期)
1600年、この年は天下を二分する関ケ原合戦が起きますが、その戦いの前から石田三成と徳川家康の対立が激化していました。
関ヶ原が起きる前に、会津征伐がおき、細川忠興など多くの武士が徳川家康に従い
出征します。
石田三成は家康不在のこの時期を狙い挙兵します。
そして、家康に従う諸大名を味方につけるために、大名の妻子を大阪城に囲い
人質にしようとします。
細川ガラシャも大坂城に行き人質になるように迫られますが断ります。
そして7月17日、石田三成は、細川屋敷周辺を取り囲みます。
しかし、ガラシャは人質になることを拒み、娘の多羅、万、長男の細川忠隆の妻・千代たちを屋敷から脱出させます。
そして、ガラシャ自身はキリシタンなので自害ができないことから、家老の小笠原少斎に命じ自身を殺害させます。享年38.
その後、屋敷に火がはなたれます。細川屋敷は焼け崩れますが台所の井戸だけが残ります。これが「越中井」です。
この井戸の横にはガラシャの辞世の句が彫られています。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
おっさんがこの句を訳すと
「散るべき時期を知っているからこそ 花は花である。同様に人間もその時期を知ってこそ人間であるのだ」、なんともなんとも・・・。
このガラシャの死で石田三成は大名の奥方を人質にとることを辞めます。
<<越中井への行き方>>
大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線、大阪市営地下鉄中央線、JR環状線
森ノ宮駅 徒歩10分