鎌倉市を流れる滑川、その滑川にまつわるお金の話を・・。
(小学生の時に読んだお金の話)
おっさんは小学生のころ、学研の「学習」という本を購入していました。
毎月送られてくる「学習」という雑誌が楽しみでしたが、
その付録にお金のことを書いた冊子があり、
日本お金の歴史や硬貨紙幣の写真が載っていました。
そして、その本に鎌倉時代のお金のエピソードが書かれていました。
ある日侍が川にお金を落とします。
すると侍が、その落とした金を拾うために、
落とした金以上のお金を払いたいまつを購入して川を探索し
落としたお金を見つけたという内容でした。
それから幾星霜。。
大人になりすっかりその話は忘れ去っていましたが、
この前、鎌倉を散策し、北条高時が自害した場所を見に行きました。
【北条高時自害の場所について書いたブログはココ】
この高時腹切りやぐらに向かう途中の川に架かる橋で
なんと、昔読んだ落とした金をたいまつで探した場所を発見しました。
40年以上の再会です。
場所はここです↓青砥藤綱邸宅跡と書いた場所、滑川に架かる橋付近です。
(青砥藤綱のたいまつの話)
たいまつの話、正確には以下の通りです。
青砥藤綱(あおと ふじつな)という人がいました。
この人は、引付奉行人という、今でいう裁判官をしていました。
ある日、青砥藤綱が鎌倉の滑川の橋を通ったときに、不意に10文の銭を落とします。
そこで青砥は、家臣に50文の銭を与えて松明を買いに行かせます。
そして、その松明の明かりを使い川に落とした10文を探し出します。
後日、この話を聞いた人が「10文の銭を拾うために50文の松明を買ったのでは、
損になる」と言います。つまり経費が掛かり過ぎるというのです。
すると、藤綱はこんなことを言います。
「10文を探すために私は50文を払ったので割が合わないと考える人もいるだろう。
しかし、私が、たいまつを買うのに使った50文は、その人にお金が流れます。 また、
川に落とした10文を探すことで、その10文は川底にあるままではなく、川から探し出されて改めて市場に流通することで、生きたお金となります。もし川に落とした10文を拾わなければ誰かが10文を得る機会を失っていたのです。ですから私は10文を拾わせました。今回の事で 世間には50文と10文のあわせて60文のお金が流通する事になります。」
つまり、お金が市場に流通することで人々にお金の流れが起きて経済が循環する。
このことが経済にとって1番大事。という話をしたのです。
自分の財布事情よりも世の中の流通を考えた言葉ですねえ。
当時はわかりませんでしたが、なるほどそう感じます。
それを鎌倉時代に考えたのですから偉いもんです。
その話の舞台となったのが、ここ鎌倉市の滑川です。
その話が起きた場所を偶然発見し、「ああ、あの話はここが舞台だったのかあ」と
驚きました。
今はその地には石碑があります。
石碑には、その鎌倉時代の青砥藤綱のお金の逸話が書かれています。
(当時のお金の歴史)
この話が生まれた当時のお金のことを少し書きます。
日本では初の本格的な流通通貨の和同開珎ができ、その後も貨幣が作られますが
人々の意識はそうかわらず、まだまだ物々交換が主流でした。
【和同開珎について書いたブログはココ】
平安末期に、平清盛が日宋貿易で莫大な利益をあげていましたが、
宋から銅銭を大量に輸入していたために、宋銭が日本で流通します。
実は日本では、16世紀まで国家が安定した状態での貨幣は発行してないために、
人々は宋銭のような海外からのお金をそのまま輸入し使用していました。
13世紀にはいると、代銭納という仕組みが認められ人々は年貢を銭貨で納めることが
できるようになります。
これがきっかけで、これまで年貢として納められていた生産物が、市で商品として売買されはじめ、やがて商品経済が発達していきます。
さらにそれに関連した流通手段の馬借や問丸などのサービス業、問屋も誕生し発達していきます。
また、宋のあとに中国を支配した元は、お金の流通制度を見直し、貨幣から紙幣を中心にし銭貨の使用を禁止します。そのため銭貨がさらに大量に日本に流出します。
<<たいまつの話の舞台になった滑川の橋への行き方>>
JR鎌倉駅から徒歩15分
住所:神奈川県鎌倉市小町3丁目11-38