大阪市中央区にある道路に面した八軒家舩着場。
ここは、古くから京の都と大坂を結ぶ舟の発着場として栄えた場所です。
(船着き場としての歴史)
この船着場は、平安時代から鎌倉時代にかけては「渡辺の津」と呼ばれていました。
平安時代には、熊野詣、住吉社・四天王寺詣が盛んにおこなわれます。
京から現地に向かう人々は、草津湊(下鳥羽)から船で淀川を下り、
ここに上陸したあと陸路を進みました。
またこの地は瀬戸内海と内陸とを結ぶ拠点としても栄えました。
(八軒家舩着場)
江戸時代に入ると、この地は、朝廷がある京都と天下の台所として栄えた大阪を結ぶ
三十石船の発着場として栄えます。
三十石船というのは、三十人程度の客が乗ることができる船のことで、京都・伏見との間を往来していました。
京都から大阪へ行くには片道約6時間。京の伏見港を夜半に出発し、翌朝に大阪・八軒家に到着します。
逆に伏見への向かう上りは、川の流れに逆らいさかのぼるために、時間が下りの倍の
12時間かかったそうです。
そして、この地域は、8軒の船宿があったことから「八軒家」という地名となりました。
この石碑の字をよく見ると「船」ではなく「舩」です。
「舩」も「船」も同じ意味です。
交通の要所の船着き場として栄えましたが、明治に入ると鉄道の出現で船の利用が減り船着場も衰退していきます。
(八軒家舩着場を訪れた人)
八軒家舩着場は、朝廷がある京都と天下の台所・大阪を結ぶ重要な船の発着場ということで歴史上の人物が多く利用しています。
江戸時代末期の1837年に、乱を起こしたものの半日で鎮圧された大塩平八郎は、
この八軒家から船で逃亡します。
薩摩藩士、長州藩藩士、さらに勝海舟や坂本龍馬、新撰組も八軒家浜の船着場を利用しました。
明治新政府軍と幕府軍が激突した1868年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦いでは、大阪城にいた徳川最後の将軍・徳川慶喜がここ八軒家浜から脱出して江戸へと逃走します。
八軒家浜は、文学の世界にも登場しています。
十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」では、舟を下りた弥次・喜多コンビが、
大坂の初上陸でここ八軒家に上陸します。
また浪曲の「石松三十石舟」で森の石松が大阪初上陸の場所もここです。
今は車が行き交いビルが立ち並び船着き場の面影はありませんが、かつては海上交通の要所として栄えた場所でした。そこには、当時を伝える石碑が立っています。
【大阪市公式HP】
【大阪市観光局公式サイト】
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