2月10日は明治時代の1904年(明治38年)、日本が帝政ロシアに宣戦を布告した日です。
日本政府は2月10日にロシア政府へ宣戦布告します。
この日から正式に日本と帝政ロシアの戦いとなる日露戦争が始まりました。
日露戦争は、明治38年に勝利をしたため「明治38年戦役」とも言います。
日露戦争は中国の東北部、満州地区と朝鮮半島の利権を争う戦いで、日露両軍の戦闘は満州南部、遼東半島、日本海周辺で行われました。
東京中野の氷川神社には、日本海軍が日露戦争で使用した機雷が飾られています。
(背景)
1868年(明治元年)の明治政府樹立から文明開化を行い、西洋諸国に追いつけ追い越せと、富国強兵・殖産興業で国造りを進めてきた日本は1889年(明治22年)には大日本帝国憲法を制定し、さらに1894年(明治27年)には初の外国との本格的な国際戦争となる
日清戦争に勝利し、多額の賠償金を得、台湾と遼東半島を手に入れます。
しかし日本の進出を快く思わないロシアは、ドイツ、フランスとともに遼東半島の返還を日本に申し入れ返還させます。(三国干渉)
そして不凍港が欲しかったロシアはその遼東半島を租借します。日本にとって屈辱的なこのロシアの態度は「臥薪嘗胆」の決意を抱かせます。
1902年(明治35年)、日本は当時の最大の軍事・経済大国だったイギリスと日英同盟を
締結します。
そして緊張が高まる中1904年(明治37年)2月10日、日本政府はロシア政府に宣戦を
布告します。
(国力の差)
当時日本は東洋の小国に過ぎず、一方のロシアは世界五大大国の1つでした(五大大国とは、イギリス、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス)。さらにロシア陸軍は世界
最強と言われていました。
国力を比較すると、日本:ロシアで見ると 兵力が109万:208万、戦費が15億円:22億円、保有戦艦が26万トン:51万トン(当時はまだ軍用機はなく戦艦が主流でした)
日本の政府首脳はロシアとの戦争がいかに無謀であり、日本という国を滅亡させる危険性を帯びていたかを感じていました。そのため戦争回避の道も探していましたし、開戦後もどこで講和に持ち込み戦争を終結させるかを考えていました。
その一方で、帝政ロシアの圧政に反対していたレジスタンスにも協力し陸軍の明石元二郎が中心となり欧州に明石機関を設立し、反ロシアの勢力の支援を行い内部からロシア国内を不安定にさせる運動をしかけていきます。そして日露戦争の翌年1905年6月にはロシア国内の各地で暴動が起きます。
(戦費調達に苦労)
戦争をするには戦費の調達が必要です。日本は外貨を得ようとしますが、開戦直後、日本の外債は暴落します。誕生して40年にもならない東洋の小さな島国の日本の国債を
買う人はほとんどいません。つまり日本がロシアに勝つと思っていた人はほとんどいなかったのです。
アメリカのルーズベルト大統領の大学時代の友人の金子堅太郎が渡米し各地で講演を
行い理解を求めます。そしてロシアの反ユダヤ政策を快く思ってなかったアメリカの
ユダヤ系銀行などの協力を得ていきます。
結局日本は、1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行します。
日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入が2.6億円ですから、この5倍の金額となります。
このお金は1919年(大正8年)の第1次大戦終了後も返済に追われました。
日本軍は203高地占領、日本海海戦、奉天の戦いと勝利し、戦局を有利にしていきます。そしてアメリカのルーズベルト大統領の勧めでアメリカのポーツマスでロシアと
交渉し条約を結びます。
(二百三高地陥落・旅順攻撃)
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(奉天の会戦)
1905年(明治38年)2月21日から3月10まで18日間、大山巌が率いる日本陸軍24万人とクロパトキン率いるロシア陸軍36万人との合計60万人が満州を舞台に戦いました。
奉天の会戦です。
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(日本海海戦)
1905年(明治38年)5月27日には日本海海戦が起き、日本海軍がロシア海軍に対し、
戦争史上まれにみる完全圧勝しました。
(ポーツマス講和会議)
1905年(明治38年)9月5日 アメリカポーツマスでポーツマス条約締結
【ポーツマス条約について書いたブログはココ】
ポーツマス条約では、賠償金はとれませんでしたが樺太の南半分を植民地にすることになりました。
東京の明治神宮外苑には、樺太国境画定標石のレプリカがあります。
【樺太国境画定標石について書いたブログはココです】
・・・ということで2月10日は
日本がロシアに宣戦を布告した日です。