2月22日、昭和最初の軍神・肉弾三勇士が誕生しました。
(肉弾三勇士とは)
上海での戦闘となりますが、中国軍が作った鉄条網に阻まれ日本軍は先に進めません。
そこで福岡県久留米市にあった陸軍独立工兵第18大隊の3人(江下武二、北川丞、作江伊之助、いずれも一等兵)が、一緒に長さ3メートルの爆弾筒を抱えたまま中国軍が作った鉄条網に突っ込み爆破しました。その爆破で鉄条網が破壊され、日本軍の進軍の突破口となりました。
この3人は爆弾とともに自らの命を落とし、この戦死で2階級特進し、「肉弾三勇士」、「爆弾三勇士」と賞賛され、昭和最初の軍神となりました。
当時の大阪朝日新聞記事です。
(日本中で大ブームに)
三勇士が自分の命を捧げたその犠牲的精神と行動に対し、日本中が沸きます。
彼らの愛国精神を軍部が称賛し新聞各社が取り上げたため、この行為を扱った映画、
音楽、浪曲、部隊、書籍が次々と複数登場します。
子供の玩具や菓子の中にも、三勇士に関するシールなどが登場し、さらに爆弾キャラメル、爆弾チョコレートなども登場。
当時少年に大人気だった雑誌の「少年倶楽部」には、三勇士の銅像の模型が付録になっています。
さらに、この出来事は小学校の教科書や音楽の本にも載るなど日本の国を挙げての大ブームとなりました。
三勇士の母達も「軍神の母」としてたたえられ逸話が伝えられました。
銅像建立には10万人の小学生を含む多くの募金が集まりました。
そして三銃士の銅像が、3名が所属した部隊があった久留米市と東京などに建立されました。
(東京にある肉弾三勇士の像)
昭和最初の軍神で、かつ、日本中に大ブームを起こした肉弾三勇士。
その時に造られた像の一部が現在も東京のお寺にひっそりと残っています。
東京都港区愛宕二丁目にある青松寺。
室町時代の1476年に麹町に創建され、江戸時代になる手前の1600年に現在の場所に
移ったこのお寺に、肉弾三勇士の銅像の一部が今も残っています。
肉弾三勇士の像はm本来は3人で長い爆薬筒を抱えていましたが、事情により
現在の姿は以下のようになっています。
日本中で大ブームとなった昭和最初の軍神・肉弾三勇士には、自らの命を捧げたというその行為に感動・感激した人や企業からの基金が集まり、上海事変から2年後の1934年(昭和9年)、その寄金をもとに、東京都港区愛宕二丁目にある青松寺に肉弾三勇士の銅像が建てられました。
銅像は、先頭が北川丞、真ん中が作江伊之助、最後の江下武二の順番になっていて、
この銅像のなかには、三勇士の遺骨が納められました。
軍神ということで小学校の生徒や一般人などが連日多く参拝したそうです。
しかし、戦後、この三勇士の像は、軍国主義のシンボルとみなされることを危惧した
関係者から撤去されて現在は、石碑と、最後の江下武二の像が残っています。
おっさんは、この像を見に行きましたが、お寺の片隅にぽつんと残っていて、
「当時あれだけ日本中を沸かせたというのに、この扱いは非常に淋しいなあ」と感じました。
90年ほど前に日本中に大ブームを巻き起こした肉弾三勇士、その像が一部が残っただけで、今も東京のお寺の隅にひっそりと残っています。
・・・ということで2月22日は、
昭和最初の軍神・肉弾三勇士が突入した日です。
<<肉弾三勇士の像が残っている青松寺への行き方>>
住所:東京都港区愛宕2丁目4番7号