京都と伏見を結ぶ竹田街道(府道115号線)沿いに伏見長州藩邸跡の石碑を
発見しました。
(京都伏見にあった長州藩邸)
江戸時代に京都と大阪とを結ぶ物流の要衝として栄え、
多くの藩が藩邸を置いた京都の伏見。
伏見から出る三十石舟の乗り場がある京橋の近くに長州藩邸がありました。
【三十石舟について書いたブログはココ】
江戸時代中期頃に、この場所に長州藩邸が、引っ越してきたと考えられています。
今、その場所は京都市伏見土木事務所になっています。
幕末には長州藩が京都を中心に歴史の舞台で様々な姿を見せます。
今回紹介する京都伏見の長州藩邸でドラマが繰り広げられました。
石碑の横にある碑文にはこう書かれています。
「1864年7月19日未明、長州藩家老の福原越後は、ここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしまします。
その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と
衝突し、禁門の変が起きます。
福原が率いる長州勢は伏見藩邸に立ち戻り態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や
他の連合軍が、伏見藩邸を砲撃しこの伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいます。」
・・つまり伏見長州藩邸跡は、幕末に禁門の変の舞台の一つとなった場所だったの
です。
(禁門の変)
尊王攘夷派の長州藩は、1863年に公武合体派の会津藩や薩摩藩により京都から排除され(八月十八の政変)、さらに翌年の1864年には池田屋事件で藩士が新撰組に殺害されます。
【「八月十八日の政変」で京を追われた公家が滞在した功山寺について書いたブログ】
【池田屋について書いたブログはココ】
1864年旧暦の7月19日、京都での失地回復を目指す長州藩急進派は、
長州藩は、一部は京都御所内に入るもののやがて全部隊が全滅します。
【禁門の変で自害した久坂玄瑞の墓について書いたブログはココ】
禁門の変以後、長州藩は朝敵となり1864年には第一次長州征伐が行われます。
その後、敵であるはずの薩摩とのまさかの薩長同盟、そして戊辰戦争、倒幕、
明治政府樹立と歴史は大きく流れていきます。
<<伏見長州藩邸への行き方>>
京阪本線「中書島駅」から歩き府道115線を北上し左手にあります
(京都伏見土木事務所が現地です)
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります。
地図上のルートを押すと道案内をしてくれます】