4月9日は、奈良時代の752年に、
奈良にある東大寺の大仏が
完成し、
開眼供養会(かいがんくようえ)という儀式が
行われた日です。
開眼供養会とは、完成した大仏に目を入れて入魂するもので、大仏の完成を記念した
法要の事です。「入眼式」とも言われます。
以後、東大寺の大仏は古くから人々に親しまれてきました。
明治時代の東大寺です。
1897年(明治37年)刊行の「旅の家つと 第2」の東大寺大仏殿。
(国立国会図書館ウェブサイトより)
1903年(明治36年)刊行「日本之勝観」に掲載された東大寺の大仏。
(国立国会図書館ウェブサイトより)
(とにかくデカい!奈良の大仏)
東大寺の大仏の座高が約15メートル、顔の長さは約5メートル、
目の長さは約1メートルです。
大仏を作るために使われた金属は銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンです。
おっさんは、実際に大仏を見ましたが、とにかくデカい!!
1200年以上も昔、ブルドーザーもクレーンもない時代に、ほとんど人力でこのような
巨大なものをよく作ったものだなあと感心しました。
<台座>
台座は大小各14枚の蓮弁からなります。
この台座には奈良時代に造られた部分が多く残っています。
大仏は何度も焼損しているため、建設当初のまま現在見ることができるのは、
ごくわずかです。
<頭>
大仏の頭、特徴があるパンチパーマのような丸まった髪の毛は、「螺髪(らはつ)」と呼ばれていて、492個あるそうです。
大仏の螺髪は、すべて右巻きですが、鎌倉大仏だけは、なぜか左巻きです。
<手>
手のひらの長さは、148センチ、1メートル以上です。
大仏の手は、「手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)」と言い、手のひらの間には「水かき」があります。
この水かきは「人間を含む全ての生き物、生きとし生ける者、正しい純粋な心を持つ人々を、漏らすことなく救う」というものです。
右手は、中指を少し曲げています。この形は「施無畏(せむい)」と言うもので「恐れることはない」という意味があるそうです。
中指の長さは108センチです。
東大寺に行く途中に、大仏の右手を再現したものがありました。
一方の左手は、ひざの近くで手のひらを上に向け、中指を少し曲げています。
これは「与願印(せむい)」とう形で、意味は「願いをかなえます」という意味です。
(東大寺大仏建立の背景)
この当時、政局は不安定でした。
729年には天武天皇の孫・長屋王が藤原氏から謀反の疑いをかけられ自殺に追いこまれる「長屋王の変」、さらに740年には九州で藤原広嗣の乱も起きます。
また自然災害も襲ってきます。毎年のように干ばつや飢饉が起き凶作が続きます。
734年には大きな地震も発生します。追い打ちをかけるように天然痘が大流行し人々がかなり亡くなっています。
このように社会不安にさらされる出来事が色々と起きて国内が大混乱をします。
現在と違い医学も進歩しておらず、食糧事情も悪い時代です。
人々が不安になると仏や神に頼るのは想像できます。
このような時代背景の中、仏教の力で社会不安を取り除き、国を安定させたいという
聖武天皇の思い・願いがあったと推測されます。
(僧の行基が建設責任者)
聖武天皇は、743年に東大寺の大仏を建立することを考えます。
大仏の造営には、莫大な費用がかかるため全国に寄付を訴えます。
しかし当時は、庶民は生きるのに精いっぱいの時代なので、そう簡単に建設資金は集まりません。
そこで朝廷は当時民衆の信頼支持を得ていた僧の行基を東大寺の大仏建立の責任者に
任命し、建設作業に入ります。
その模様は依然ブログに書きましたので、こちらをどうぞ。
(柱くぐり)
大仏殿の北東には穴が開いた柱があり、これは大仏の鼻の穴と同じ大きさだそうです。
穴が開いている北東は陰陽道で言う「鬼門」。鬼が出入りする方角です。
そこで穴をあけることで邪気を逃す役割を果たしているということです。
ここは鹿が有名ですが、ここの鹿は、鹿せんべいを見ると一斉に群がってきますので、注意が必要です。
また、おっさんは、一度鹿せんべいを食べてみたことがありますが
ぜーんぜん、おいしくないので食べないほうがいいです!
【奈良公園の鹿について書いたブログはこちら】
修学旅行の定番コースの1つ、奈良の大仏。
実際に見ると大きいですよ。
<<東大寺への行き方>>
近鉄奈良駅から徒歩約20分
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります。
地図上のルートを押すと道案内をしてくれます】
東大寺は1998年(平成10年)12月に
古都奈良の文化財の一部として、
世界遺産に登録されました。
ということで4月9日は
奈良の大仏が完成した日です。