山本五十六長官は、1943年〈昭和18年〉4月18日に前線視察に向かう途中、
ブーゲンビル島上空で暗号を解読したアメリカ軍戦闘機の待ち伏せにあい戦死します。
出典:「 東亜建設聖戦史大東亜戦争写真史大観」(国立国会図書館ウェブサイトより)
山本五十六は、お父さんが56歳の時に生まれた子供ということで名前が五十六(いそろく)となりました。 太平洋戦争時には米軍は「ヤマモト フィフティー シックス」と呼んでいたそうです。
海軍大学校卒業後は、駐米大使館付武官、空母赤城の艦長などを歴任し1929年(昭和4年)に開かれた第一次ロンドン軍縮会議には随員として参加します。
その後、第一航空戦隊司令官、海軍航空本部長として海軍航空部門の強化に尽力します。
山本は、アメリカのハーバード大学留学経験もあり、その後も駐米大使館付武官となってアメリカで生活をしていたため、アメリカの国力を肌で感じて知っていました。
そのため対米戦争には日本は米軍に勝つことが難しいことを感じていて日米開戦反対の立場でした。
海軍の軍人として、第26、27代連合艦隊司令長官を務め、太平洋戦争の開戦時の真珠湾奇襲、ミッドウエイ海戦などの指揮をとりました。
出典:大東亜戦争海軍作戦写真記録1(国立国会図書館ウェブサイトより)
(山本長官待ち伏せで襲撃され死亡)
山本長官は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)ラバウル島を視察します。
その後、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てます。
そしてその前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電されます。
4月17日、アメリカ海軍報局は暗号無線を傍受し暗号を解読します。
そして、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニングに襲撃
され59歳で戦死しします。
【山本長官死去を伝える当時のニュース映像】
山本は連合艦隊司令長官を着任から戦死までの約3年8ヶ月間務めました。
この在任期間は歴代長官で最長で、また、山本は歴代の司令長官で唯一の戦死者です。
4月18日に死亡し、その後、元帥になり、6月5日には、戦前唯一の皇族、華族ではない、いわゆる平民としての国葬が日比谷公園で行われました。
【山本元帥の国葬を伝える当時のニュース映像】
山本は将棋が好きで真珠湾奇襲の前日、ミッドウエイ海戦では戦闘中に将棋を指していたそうです。
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」は山本の格言として有名です。
出典:[山本五十六肖像写真](国立国会図書館ウェブサイトより)
なお、4月18日と言えば、山本長官が戦死するちょうど1年前の1942年(昭和17年)4月18日には米軍による日本本土初空襲が起きています。
ということで
4月18日は
戦死した日です。