(朝廷の収入源が原因)
承久の乱は、朝廷をないがしろにする鎌倉幕府への反抗ですが、もう1つ経済的な意味もあります。
それはお金です。
鎌倉幕府ができる前までは、朝廷や貴族は全国にあった「荘園」からの租税収入がありました。
しかし、鎌倉幕府が成立し地頭を置いたことから朝廷や貴族はこれまでのような租税収入を期待することができなくなりました。
収入ダウン、経済封鎖であり、これは大きな痛手です。
朝廷側は、この経済的貧窮を何とかせねばと必死でした。
(源氏滅亡)
1219年3代将軍、源実朝が兄の頼家の子供で、実朝の甥にあたる公暁に暗殺され、
その公暁も殺される事で、源氏の本流の血筋が途絶えてしまいます。
源氏が3代で途絶えると頼朝の遠縁にあたる京都の貴族が将軍として迎えられ、
鎌倉幕府は頼朝の奥さんの北条政子の実家である北条氏が実質的に実権を握るように
なります。
実朝の死から2年後の1221年、このとき京都で院政を敷いていて朝廷のナンバー1だったのが後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇は、後白河法皇の孫で、壇ノ浦で命を落とした安徳天皇の異母弟です。
後鳥羽上皇は、源平合戦の時期の平安末期の1183年に安徳天皇が在位しているにもかかわら、後白河法皇の命で後鳥羽天皇として即位します。そのため、1183年から1185年までの2年間は、2人の天皇が即位して、2つの年号がありました。
また安徳天皇が三種の神器を持っていたため 後鳥羽天皇は三種の神器がないままに
即位した天皇であるため、形式や儀式を重んじる貴族から「あの人は三種の神器がなくて天皇になったから・・」とかなり陰口をたたかれたそうです。
また「政情不安や自然災害が起きると、あの人は三種の神器がなく即位した天皇だから、やはり・・・」と言われたそうです。
鎌倉時代に入り上皇になった後鳥羽上皇の邸宅跡地は京都市上京区五辻通千本東入るで、そこには石碑や案内板があります。
後鳥羽上皇は歌人としても優れていて「新古今和歌集」は、後鳥羽院の命によって
編纂された勅撰和歌集です。(ちなみに「古今和歌集」は醍醐天皇です)
(院宣が発せられる)
さて、この後鳥羽上皇が全国各地の武士に対して、幕府の実質的トップである執権・北条義時追討の院宣(いんぜん:上皇の意思を示す文書)を発します。
この院宣に鎌倉武士は混乱します。
後鳥羽上皇が発した義時追討の院宣によって、上皇と戦うことが、朝敵となるからです。
しかし、ここで動揺する東国武士を1つにまとめたのが初代将軍頼朝の妻・北条政子です。
政子は鎌倉の御所に集まった御家人に演説を行います。
吾妻鏡という本にはその様子が書かれていますが要約すると
「頼朝様が関東に幕府を開いて以降、その恩は山よりも高く、大海よりも深いのです。その恩に報いて下さい。名誉を重んじるものは源氏三代の将軍が築き上げた物を守りなさい。」。こう言い放ったのです。
この政子の言葉を聞いた御家人達は、一致団結して戦うことを決意します。
名アピールですね。
承久の乱は幕府側の勝利に終わります。首謀者である後鳥羽上皇が隠岐へ順徳上皇は
さらに仲恭天皇は廃位となります。
また、後鳥羽上皇や上皇方に着いた貴族や武士が有していた荘園はすべて没収されます。そして上皇方についた国々に東国の御家人を守護や地頭として送り込み、西日本に勢力を広げます。
(六波羅探題を設置)
承久の乱後、鎌倉幕府は、平清盛の邸宅地に朝廷の動きを監視する機関の「六波羅探題」を作ります。
石碑に刻まれた「六波羅探題」の文字が読み取れると思います。
承久の乱後、朝廷の力も押さえた鎌倉幕府は、全国にその影響力を拡大していきます。
この六波羅探題は、鎌倉幕府の幕末1333年に足利尊氏に滅ぼされます。
5月14日、承久の乱が起きます。
2021年(令和年3年)は、
承久の乱が起きて800年目です。