5月15日は、1932年(昭和7年)に武装した海軍の青年将校などが首相官邸に乱入し、
軍部が首相官邸に乱入し、首相を殺害したのはこれが初めてです。
(憲政の神様・犬養毅)
(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)
犬養毅は慶応義塾で学んだあとに郵便報知新聞の記者として西南戦争に従軍。
東海経済新報記者をへて、立憲改進党創立に参画。1890年(明治23年)第1回総選挙で
衆議院議員に当選、以後第18回総選挙まで1度も落選することなく19回連続当選。
1932年(昭和6年)、首相となるが、翌年5・15事件で暗殺されます。
尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれ、普通選挙の実現に力を注ぎました。
(5・15事件の背景)
5・15事件について語る場合、話は、犬養首相の前の首相・若槻禮次郎にさかのぼります。
(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)
若槻は、濱口内閣時代の1930年(昭和5年)、日本全権としてロンドン軍縮条約を締結し、その後、濱口の次の首相になります。
軍備縮小になった海軍が不満を抱き、若槻襲撃を狙っていました。
1932年(昭和7年)2月の選挙で、若槻内閣は退陣し、犬養毅が総理大臣になりますが、反政府の動きはおさまりません。
また、当時の日本は、戦前で最も深刻な恐慌と言われる昭和恐慌がおき、農村部では、日々の食べものに困り、娘の身売りが頻繁になるなど苦しい生活が続いていました。
そうした農村部出身者が多い軍隊内部では、こうした状況も加わり政治への不信が募っていました。
(5・15事件の内容)
5・15事件は、首相を暗殺し、警視庁や銀行を襲撃し、さらに変電所を襲い都内の電力をマヒさせて混乱させて戒厳令を出させ、その流れの中で軍閥内閣を樹立するという
構想でした。
そして軍部は首相官邸の襲撃します。犬養は押し寄せた軍人に「話を聞こうか」と言いますが、軍人は「問答無用」と言い犬養に銃を発射します。
犬養は、撃たれた後に女中さんに「9発撃って3発しか当たらんとは、どんな訓練をしているんだ」と話したそうですが、その数時間後死亡します。76歳でした。
犬養毅の首相在位期間は1931年(昭和6年)12月13日から1932年( 昭和7年)5月16日で、在職日数は156日でした。
有名な話ですが。この時、来日していた世界の喜劇王のチャップリンは、5月15日に
首相官邸を訪問する予定があり、彼も暗殺リストに入っていました。
5・15事件は、首相殺害、銀行襲撃には成功したものの、戒厳令発令まではいかず、
犯行後に、海軍士官や陸軍士官候補生らは東京憲兵隊に自首しました。
その後、裁判が開かれますが、5・15事件での将校たちの行動に対し海軍兵学校の卒業生やクラスメート、さらに民間も巻き込んだ、”助命嘆願運動”が起こります。
そして暗殺をした海軍青年将校は誰一人として死刑にはなりませんでした。
5・15事件後、政党内閣制は終わりを告げ、軍部の発言力は増大し、軍部独裁への道を進みます。
(数奇な運命)
5・15事件で殺害された犬養首相に代わり、臨時兼務で首相になったのが犬養内閣で大蔵大臣だった高橋是清です。この高橋是清は2・26事件で殺害されます。
「5・15事件」と「2・26事件」は、いずれも軍部が首相を含む政府首脳部を襲った事件ですが、その双方に高橋是清は関係しています。
(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)
(1932年)
5・15事件が起きた1932年(昭和7年)は、どんな年かを見てみます。
1月に第一次上海事変、昭和天皇暗殺未遂事件、2月に井上準之介蔵相が暗殺、さらに肉団三勇士、3月に満州国建国、団琢磨暗殺、4月上海天長節爆破事件、5月に5・15事件、8月はドイツ総選挙で
ナチス圧勝、・・と歴史上重要な出来事が次々と起きた年です。
【1932年の出来事を書いたブログ記事】
(肉弾三勇士)
(満州国建国)
(ロス五輪実感中継)
(銀座の象徴「和光」完成)
(「花々と星々と」)
おっさんは小学生の時に「花々と星々と」という本を読みました。
これは犬養毅の孫娘の犬養道子さんが書いた本で、犬養毅が暗殺されるまでを描いた
自叙伝です。当時の世相や背景、状況が凄くわかりやすいです。お勧めします。
ということで。5月15日は1932年(昭和7年)に5・15事件が起きた日です。