江戸時代、庶民の間で大ブームとなったものがあります。
伊勢神宮は三重県伊勢市にあり、日本全国に8万あると言われる神社の最高位・中心となる本宗(ほんそう)で「お伊勢さん」とも呼ばれています。
伊勢神宮には、皇室の御祖先の 天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする
内宮(ないくう)と
衣食住を始め産業の守り神である
外宮(げくう)があります。
(江戸時代に誰もが憧れたお伊勢参り)
「お伊勢参り」は、江戸時代の日本人が一生に一度は実現したいことと言っても
大げさではなく、伊勢音頭には「伊勢へ行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」と歌われています。
江戸時代に人気があった弥次さん喜多さんが登場する十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」には、このお伊勢参りも描かれています。
江戸時代は、「入り鉄砲に出女」と言われるくらい、庶民の往来には厳しく、各地に
関所が設けられました。関所を通るには通行手形が必要でしたが庶民には通行手形を
手に入れることが難しかった時代です。
しかし、お伊勢参り目的だけは例外で簡単に手形を手に入れることができました。
(徒歩で伊勢神宮に)
江戸時代は、今みたいに車や電車、バスといった交通機関がなく、また道の状況もよろしくありません。
経済的に大きな負担となるため「人生にたった一度の大旅行」という感じで、伊勢神宮参拝後は、道中の観光名所などに立ち寄りながら、数カ月をかける人が多かったようです。
伊勢神宮へは江戸から歩いて片道15日、大阪からは片道5日、名古屋からは3日かかるということでした。
大阪から行く場合、その起点は玉造稲荷神社でした。
境内には、当時のルートも書かれていました。
【玉造稲荷神社について書いたブログはココです】
(伊勢講)
数日間もかかる「お伊勢参り」では食費、宿泊費、交通費など莫大なお金がかかります。
これは庶民にとって相当な負担です。そこで村ごとに“伊勢講(いせこう)”という団体をつくり、みんなでお金を積み立て、そのお金で村の代表者が伊勢神宮に参拝にいくという仕組みも生まれました。「皆でお金を援助して順番に伊勢参りをさせよう」というシステムです。
伊勢講で伊勢神宮に行く代表者は、村のみんなの分もお祓いを受け、お土産を手に村へ戻りました。
(施行(せぎょう)
伊勢参りは、お金がなくても、ひしゃくがあれば伊勢までたどり着く事ができました。
参拝者に食事や宿などを無料で提供する「施行(せぎょう)」というものがあり、ひしゃくを持っていれば、それは施行を受ける目印であり、その人は無銭で伊勢までたどりつくこともできのです。
というのは、施行を与えた者は善行によって徳を積むことができるという考えがあったからで、人々は進んで施業を行っていたそうです。
(伊勢神宮PR係りの御師)
江戸時代、御師(おんし)と呼ばれる神職の人がいて、彼らは伊勢神宮から各地に出向いて各地で伊勢神宮のありがたさをPRし、また、暦やお札、伊勢土産を配り、金銭や米の奉納を勧めました。
彼らのPR活動のおかげで、庶民の間に伊勢神宮に参拝したいとのう気持ちが高まります。
(お陰参り)
江戸時代になると、集団で伊勢神宮参拝をする「お蔭参り(おかげまいり)」が流行ります。
数百万人規模の集団参拝が60年周期(「おかげ年」と言う)で3回起きています。
奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で伊勢神宮に参詣して信仰心によるものということで咎められませんでした。そこで、お蔭参りが別名、「抜け参り」とも呼ばれています。
(おっさんのお伊勢参り)
江戸時代、日本人のほとんどが憧れたお伊勢参り。
おっさんも実際に伊勢神宮に参拝したことがあります。
その時の様子はブログで書きました。
【伊勢神宮公式HP】
<<伊勢神宮へ行き方>>
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります】
みなさんも、
我々の先祖が憧れたお伊勢参りを
体験したらいかがですか?