読売巨人軍のホームグラウンドとして有名な東京ドーム。
東京都文京区後楽園にあるこの野球場の敷地内、21番ゲートの前にある、富坂警察署東京ドーム警備派出所の前の階段を下りると2つの石碑があります。
この2つの石碑は、『鎮魂の碑』(ちんこんのひ)と呼ばれるもので、太平洋戦争などで命を落としたプロ野球選手の功績を記念して建てたものです。
(戦争で亡くなった球児を鎮魂)
1937年(昭和12年)7月7日に起きた蘆溝橋事件から始まった日中戦争、さらに1941年(昭和16年)12月8日に始まった太平洋戦争では、多くの野球選手が戦場に赴きました。
そして名投手沢村栄治、吉原正喜、阪神の景浦将といったプロ野球の礎を築いた名選手が命を落としました。
【沢村栄治】
最も優れた先発投手に贈られるタイトル「沢村賞」、その名前のもととなったのが巨人軍にいた沢村栄治です。
剛速球投手として知られていた沢村栄治は、日本のプロ野球が始まる前の1934年(昭和9年)に行われた日米野球の時に、わずか17歳で全日本軍のエースとして登板し、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグを擁する全米軍から8回で9個の三振を奪う大活躍をします。試合は最終回にゲーリッグに本塁打を浴びて0-1で惜敗します。
沢村は、プロ入り後もその剛速球で活躍しますが、3度目の招集を受け、1944年(昭和19年)12月、フィリピン近海で乗っていた輸送船が米国の潜水艦の攻撃を受けて沈没し、27歳で命を落とします。彼の背番号「14」は球界史上初の永久欠番となりました。
「鎮魂の碑」は、沢村栄治をはじめ戦場で散った戦没野球選手の功績を称えるため、1981年(昭和56年)4月に旧後楽園球場の脇に建立されました。
そして1988年(昭和63年)3月には東京ドームの完成にともない現在の場所に移設されました。
(2つの石碑)
碑は2つあります。
右側の碑は、沢村栄治、吉原正喜、阪神の景浦将と言った戦死した選手73名の氏名が
刻まれています。
名投手・沢村栄治の名前も刻まれています。
向かって左側の石碑には文章が刻まれています。
上の部分の文章は、野球人として唯一特攻隊員として戦死した名選手・石丸進一さんへの、実兄で同じく野球選手だった藤吉さんによる追悼文です。
この石丸選手は、戦前では最後となるノーヒットノーランを達成しています。
1944年(昭和19年)に学徒出陣で召集され翌年に沖縄で特別攻撃隊として戦死しています。
「追憶(ついおく)
弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。 召集(しょうしゅう)は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。「よし、ストライク10本」そこで、ボールとグラブと”敢闘”(かんとう)と書いた鉢巻(はちまき)を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。
遺族代表 石丸藤吉 」
(セリーグ会長の言葉)
この碑が建立された当時のセリーグ会長だった鈴木龍二氏による建立趣旨文も
刻まれています
「 第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵に散華した選手諸君の霊を慰めるためわれら有志あいはかりてこれを建つ 有志代表 鈴木龍二」
読売巨人軍の本拠地で試合では毎回5万人を動員する東京ドーム。
その片隅に戦没野球選手の鎮魂の碑がひっそりとあります。
この石碑はなかなかわかりにくいです。おっさんが探すのに一苦労しました。水道橋の駅からドームに行く途中にあればいいけど。実際にあるのは反対の場所で、しかも目立ちません。でも、見て欲しいです。知って欲しいです。
<<東京ドーム 鎮魂の碑の行き方>>
水道橋駅から徒歩10分以内
住所 東京都文京区後楽園1丁目3
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります】
今は、多くの人が野球を楽しむことができます。
しかし、
私達は志半ばで無念の死を遂げられた先輩方の存在を
決して忘れてはいけないと思います。