7月19日は、江戸時代の幕末・1864年に京都で
蛤御門の変が起きた日です。
このあたりの流れは、ややこしいので少し前から見ていきます。
長い間、鎖国政策を続けていた日本は1854年日米和親条約、さらに1858年には
日米修好通商条約を結び開国します。これは治外法権や関税自主権の点で不平等条約
でした。
開国により日本が欧米諸国から政治や経済の面で圧迫を受け、下級武士や一部の公家
からは外国勢を打ち払えと言う攘夷論が起きます。
この攘夷論に、朝廷の権威を高めようという尊王論が結びついた尊王攘夷論が広まります。
長州藩は、攘夷の武力手段として1863年5月に関門海峡を渡る外国の船を砲撃します。
(堺町御門:八月十八日の政変)
同じく1863年、朝廷内の公明天皇や公武合体派の中川宮朝彦親王が、会津藩や薩摩藩と協力し、尊王攘夷派の公卿・三条実美など7人と長州藩を京都の御所から追放する政変を行います。(八月十八日の政変)
そのとき、京都御所の堺町御門に警備担当の長州藩が集まりますが、この門が会津藩、薩摩藩の兵士で固められてしまい中に入ることができずに戦いに敗れます。
1864年6月5日、京都で新撰組により池田屋事件がおき、長州藩は尊王攘夷派の志士を
失います。
池田屋事件の1か月後の1864年7月に長州藩は禁門の変を起こします。
八月十八日の変で京都から追放されていた長州藩が会津藩主で京都守護職の松平容保
などの排除を目指して挙兵します。京都 に 進軍 し、 御所 の 蛤御門 周辺 で、 会津藩兵・ 薩摩藩兵を中心とした幕府軍と武力衝突 を 起こします。
長州藩はやぶれ尊王攘夷派の来島又兵衛は戦死。久坂玄瑞 、真木和泉は自刃します。
また京都の町が2万軒余の家が焼ける大火となります。
この戦いで長州藩は「朝敵」となり江戸幕府から長州征伐を受けます。
蛤御門(はまぐりごもん)。正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」。
御所の火災の時に、滅多に開くことがなかったこの門が開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて「蛤御門」という俗称が付けられたと言われます。
(500年以上の内裏・京都御所)
京都御所は京都府京都市上京区にあり、鎌倉時代末期の1331年から明治初期の1869年(明治2年)までの間、途中分断が何度もあったものの500年以上この地に天皇が居住し儀式・公務を執り行いました。
下の地図を見るとわかるように 蛤御門は御所のすぐ近くです。
<<蛤御門への行き方>>
地下鉄「今出川」駅下車、徒歩約5分
市バス「烏丸今出川」下車、徒歩約5分
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります】
・・・ということで
7月19日は蛤御門の変が起きた日です。