太平洋戦争中には、撃墜したB29の乗組員を、一般市民が殺害する事件が各地で起きています。
日本国民は、敵国米英を「鬼畜米英だ」と教えられていましたし、戦争で、身内が死亡したり負傷する、あるいは戦争後半は日本各地が空襲で家や故郷を焼かれるなどしていたため敵国人に対し恨みを持っていました。
そのため日本本土空襲に来たものの、撃墜されたB29から脱出した米兵を、市民が見たときに、怒りと供に強い憎悪と殺意を抱き殺害するという事が各地で起きています。
(国領稲荷神社の惨事)
B29の乗組員殺害は東京でも起きています。
入手した資料には「国領稲荷神社の惨事」と記されています。
なお、この神社は正式な名称がなく「調布稲荷」「小山稲荷」などとも言われています。
(B29飛来)
戦争末期の1945年(昭和20年)4月7日土曜日のお昼、飛来したB29の編隊が、日本軍の戦闘機のエンジンや機体を制作していた中島飛行機武蔵製作所の空襲に向かいます。
B29飛来の情報を受け、日本陸軍飛行第244戦隊は、陸軍調布飛行場から陸軍の三式戦飛燕で迎撃に向かいます。
(飛燕体当たりでB29を撃墜す)
当日午前10時頃、調布上空で1機の飛燕が編隊を組んでいたB29「ティティマウス」の左エンジンに体当たりを行います。この体当たりでB29はエンジンを損傷しキリモミ状態で墜落します。
一方、体当たりをした古波津里英(こはつ さとしげ)少尉は、パラシュートで
三軒茶屋方面に着陸し生還します。
体当たりを受けたB29は墜落途中で空中分解し、バラバラになっった部品が国領の
各地に墜落し、B29の主翼が落ちた民家では家族8人が全員なくなっています。
体当たりで撃墜されたB29の乗組員11人は1人を残し死亡しました。
なお別の資料には8人が死亡し3人がパラシュートで脱出したともあります。
生き延びた1人の米兵は、現在の調布市国領、京王線国領駅近くにある國領稲荷神社
付近にパラシュートでおります。ここで取り囲んだ住民たちに殺害されました。
現在、国領稲荷神社には1945年(昭和20年)4月7日に起きた惨事を物語るものは何も
ありません。
<<調布国領稲荷神社への行き方>>
住所:東京都調布市国領町4丁目
この国領稲荷神社で起きたB29乗組員殺害の惨事に関しては、この記事を書いてブログにUPした2021年(令和3年)8月現在、ネット上でほとんど記事を見かけません。
当時の事を知る付近の人の話があるだけです。
戦争で何が起きたかということは、きちんと調べ継承し伝え残していくべきだと思います。