これぞ、石に刻まれた未来へのメッセージ!!
江戸時代の人が、「地震が起きたときにどう行動すれば良いのか?何を注意すればよいのか?」という教訓やアドバイスを未来に伝え残している・・そんな石碑があります。
和歌山県有田郡湯浅町にある深専寺(じんせんじ)の門前に建てられている石碑です。
下の写真、赤で囲んで部分です。
地震に関する石碑と言えば、震災で亡くなった人々の慰霊碑を思いつく人もいると思いますが、この石碑には地震の被害状況などの記録と避難方法、避難先が刻まれています。「地震が来たらこうしなさい」という過去から未来へのメッセージなのです。
幕末の1854年(安政元年)11月4日午前9時頃に、東海・熊野海岸沖を震源としてM8.4の安政東海地震が起きます。
その約31時間後の翌日11月5日の午後4時頃に、今度は紀伊水道・四国南方沖の海域を震源としておなじくM8.4の安政南海地震が起きます。
和歌山県有田郡湯浅町 深専寺にある石碑「大地震津波心得の記」は、その状況を記しています。
この石碑は、この前を通るたびに地震の記憶を呼び起こすことを願って地震発生から
2年たった1856年11月に造られました。
石碑は高さは1.8m、幅62cmと結構大きいです。
身長175センチのおっさんが横に立ってみると、この石碑の大きさがわかると思います。
石碑の裏には、建立に寄与した人々の名前が刻まれています。
この湯浅地区は当時日本有数の醤油の醸造地。
彼らの多くは醤油で成功し財を築いた方々だそうです。
(石に刻まれた文章を解読)
大地震津なみ心え之記(大地震津波心得の記)と題した未来へのメッセージは、528文字で書かれた仮名交じり文です。
ではこの文章を解読してみましょう。
まず6月14日夜に起きた安政伊賀地震の揺れと同年11月4日に起きた安政東海地震の
揺れと、それによる「川口よた(小さな津波)、来ることおびただし」と書かれています。
次に、11月5日の安政南海地震の津波について記述しています。
そこには「大木大石をさかまき、家、蔵、船をことごとく砕き、高波押し来る勢いは
すさまじく、おそろしなんといわんかたなし。」と強烈な地震と津波であったことが
わかります。
さらに、「地震から逃れようと船に乗り込んで避難しようとした人たちが、地震のあとにやってきた津波に船もろとも飲み込まれて流されてしまい、転覆や破船にあって放り出されて溺死した人も少なくなかった」と記されています。
そして、「宝永四年の地震にも浜辺へ逃げて津浪に死せし人のあまた有りしとなん。
聞きつたふ人もまれまれになり。行ものなれば、この碑を建置ものぞかし」と、書かれています。
意訳すると、147年前に起きた宝永地震のときにも、浜辺へ避難して、そこで津波に
襲われ死んだ人が多かった。しかし時間が過ぎてしまい、このような事を知っている人が少なくなった。だから、「子孫へ地震の津波のおそろしさを伝承するためにこの石碑を建立する」ということです。
文章の最後には
「地震が起これば津波が来るものと考え、絶対に川辺や川筋には逃げることなく深専寺の門前を通り、東の天神山に逃げるように」という内容が記されています。
(天神山に行ってみる)
石に刻まれた「東の天神山に逃げるように」。。。
じゃあ、実際に天神山に逃げてみよう ということで、おっさんはここ深専寺から避難経路とされた天神山まで歩いてみました。
目標の天神山は湯浅駅を通り越して、お寺の反対側にあります。
歩くこと20分程度、山が見えてきました。
山の中腹、ここですね。
ちゃんと「津波一時避難場所 天神山」という看板もありました。
海抜20.8メートルです。
ここなら津波が来ても大丈夫のようです。
今と違い、物事を語り伝えるには石に刻み石碑にするのが1番だったようです。
この発想は素晴らしと思います。
(深専寺とは)
この石碑がある湯浅は、醤油醸造が盛んな地でかつ深専寺は、熊野古道が近くにある
ため宿舎に利用されていたそうです。
【湯浅街観光公式HPの深専寺の記述】
JR湯浅駅から徒歩10分以内
紙でなく石に刻むので紛失しにくいし風化もしにくい。
石碑にするので人目につくことで忘れ去られる可能性も
低いと言うことです。
うん、素晴らしい!!
江戸時代の方が石に刻んだ未来へのメッセージです!