10月5日は、南北朝が統一された日です。
後醍醐天皇による建武の中興以後、南朝と北朝の2つに分裂していた皇統が、
室町時代の1392年10月5日に統一されます。
(南北統一までの流れ)
南北統一までの歴史を見て見ます。
足利尊氏が室町幕府を作り、吉野に逃れた後醍醐天皇が吉野に南朝を作ります。
【南朝の皇居について書いたブログはココ】
【後醍醐天皇陵について書いたブログはココ】
南北に分かれた後も、足利尊氏や弟の直義が南朝に通じたり、楠木正成の子供の正儀が足利方についたり、すぐ南朝に戻ったりとこの時代の人間関係はごちゃごちゃです。
【1350年の観応の擾乱について書いたブログはココ】
そして、室町幕府三代目将軍、足利義満の時代になると幕府は安定する一方で、南朝は弱体化していきます。
【3代将軍:足利義満誕生について書いたブログはココ】
(南北朝統一)
足利義満の時代に入ると、南朝側で有力な豪族は、後醍醐天皇を支え続けた楠木一族の正勝のみといった情勢になります。
そうしたなか、足利義満は南朝に対し降伏を勧告しますが、南朝側はこれを拒絶し、
抵抗します。
しかし南朝のシンボルであった千早城が陥落したためようやく南朝は義満に降伏しました。
このとき、義満が南朝に出した南北朝統一の主な条件は以下の3つ。
・南朝の持っている三種の神器を北朝に譲ること
・皇位には持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互につくこと
・領地は鎌倉幕府の時代に戻すこと
この南北統一案を受諾し南朝側は行列を仕立てて京都へ帰ってきます。
こうして、分裂から57年目にして南北に分かれた朝廷が一つに戻りました。
(対等合併ではなく吸収合併)
南北統一は対等合併であったはずが、実質は北朝に南朝が吸収合併されたものでした。
・三種の神器を渡すときも、通常行う「国譲り」という儀式を執り行うという約束は果たされず、普通に神器が戻ってきたという形をとります。
このことは、京都から紛失していた神器がもとの場所に収まったという形をとったことを意味するもので、南朝の存在自体を否定するものでした。
・講和条件には南朝の後亀山天皇は領土をもらえる約束でしたがもらえず、生活も苦しくなります。
そこで後亀山天皇は、義満の死後の翌年に挙兵します。
この時、室町幕府側は、旧領を与えるという条件で後亀山天皇を京都に呼び戻しますが、この約束も守られませんでした。
その後、南朝側の一部は、この統一を不服とし南朝復興運動を行います(後南朝)が、
時代の推移とともに自然消滅していきます。
・・・・というわけで
10月5日は南北朝が統一された日です。