JR上野駅の階段を上り右側にある西郷隆盛の像。有名ですよね。
そのすぐ近くにお墓があります。
「戦死之墓」と刻まれているこの墓は彰義隊の墓です。
彰義隊とは明治維新の戊辰戦争の際に江戸で抗戦した佐幕派の隊です。
(彰義隊結成)
1868年(慶応4年)2月11日、鳥羽・伏見の戦の後、徳川慶喜は江戸へ帰り,翌12日、
上野寛永寺に謹慎して明治政府に対し恭順の意を示します。しかし慶喜の側近の旧幕臣などを中心とする約800人は、官軍に対して徹底抗戦を唱えます。
そして2月23日、将軍徳川慶喜の身辺警護などを目的として浅草本願寺で結成式が
行われ、頭取に慶喜側近である渋沢成一郎(喜作),副頭取に天野八郎をようした彰義隊が誕生します。
彰義隊は、江戸幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行っていました。
「京都の治安を担当した新撰組、江戸の治安を担当した彰義隊」ということでしょうか?
彰義隊は、4月3日には、本願寺から寛永寺に本部を異動します。
4月11日には江戸城が無血開城され慶喜が水戸に去りますが、彰義隊の面々は輪王寺宮能久(よしひさ)親王を擁して新政府に対し抗戦の姿勢を示し上野の寛永寺に立てこもります。
やがて内部対立から渋沢が脱隊し、その後、彰義隊の実権は天野が握ります。
しかし、新政府側は、1868年5月1日に彰義隊に対し江戸市中取締の任を解くことを
そして5月15日に、長州藩の大村益次郎が指揮する政府軍が上野寛永寺周辺にこもる
彰義隊を包囲します。
雨の中の戦いは新政府軍の圧倒的な火力により、わずか1日で彰義隊は壊滅します。
【彰義隊の墓のすぐ近くの案内板に書かれていた戦いの図】
この戦いで生き残った一部は榎本武揚のひきいる旧幕府の軍艦で逃亡し箱館・五稜郭の戦いに参加します。
五稜郭の戦いは、これまた面白いのでこの一連を御覧下さい。
ちなみに、彰義隊が滅んだこの年の9月8日に元号が「慶応」から「明治」に変わります。
(戊辰戦争唯一の江戸での本格的な戦い)
上野戦争は、戊辰戦争で、唯一、江戸市中で起きた大規模戦闘です。
彰義隊戦死者は、100名以上と言われ、遺体は上野山内に放置されましたが三ノ輪円通寺の住職仏磨らによって茶毘に付されました。
彰義隊は、天皇の政府である明治政府に逆らった朝敵=逆賊とみなされ、彼らの墓を
建立することが許されたのは、1874年(明治7年)でした。
(彰義隊の墓ができても・・・)
戦いから6年たってようやく彰義隊の墓がたてられました。
しかし、その墓碑銘には、「彰義隊」の名は記されていません。
彰義隊は明治政府にとっては賊軍であったため、その墓には「彰義隊」という文字は
なく「戦死之墓」と刻まれています。
ちなみにこの文字は有名な「幕末の三舟」の一人である「山岡鉄舟」の筆です。
のちに土台部分に彰義隊と刻まれた石が置かれました。
(明治期の彰義隊の墓)
明治期に撮影された彰義隊の墓の写真がありました。
今と違い、柵に囲まれてなくて自由に入れたようです。
【1911年(明治44年)発行「東京風景」に掲載された 上野の彰義隊の墓の写真】
【2021年(令和3年)夏におっさんが撮影した 上野彰義隊の墓の写真】
<<彰義隊の墓への行き方>>
上野駅から徒歩3分
住所:東京都台東区上野公園
機会がありましたら参拝してみてはいかがでしょうか?