日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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10月19夜日 蒙古襲来!文永の役起きる!!

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九州福岡県福岡市にある祖原公園。

ここは1274年、最初の元寇文永の役で九州に上陸した元の陣地が敷かれた場所で、

同時に、ここで日本軍の武士団との激しい戦いが繰り広げられました。

 

日本本土に初めて本格的に外国が攻めてきたのが、元寇=蒙古襲来、

その第一ラウンド「文永の役」が鎌倉時代の1274年10月19日の夜中から始まりました。

 

外国の軍隊が集団で日本に上陸して戦闘を行うんですから、これはひどい話しです。

元は1万5000~2万5000人の主力軍に加え高麗軍5300~8000人などをあわせた総計2万7000~4万人の大軍で、現在の韓国南部・馬山を出港しました。

使われた船は725~900艘あったそうです。

元の大軍は、対馬、それから壱岐に上陸し、各地でことごとく人を殺し家屋を焼き払います。

対馬での元との戦いの最中には、武士が脱出し、博多に向かい元軍の襲来を知らせます。

実はここ重要ですよね。もし対馬が全滅したなら、生き延びた武士が蒙古襲来を伝えることが起きず、結果として、何の情報もなしにいきなり元の大軍が博多に襲来するので、日本軍は不意打ちをくらい大混乱になるところでした。

 

1274年の文永の役から2年後に、日蓮が当時の伝聞を書き留めています。

それによると「元軍は対馬に上陸後、一般人を蹂躙した。男は殺戮、あるいは捕虜とし、女は手のひらに穴を開けて鎖で船の壁に繋いだ」

おいおい!!「手に穴を開けてつないだ??」さりげない文章ですが、これはなんてことを!!!想像しただけでも、気味が悪くなります。

 

(10月20日博多上陸)

対馬、そして壱岐を殺戮しつくした元軍は、さらに肥前(現在の佐賀県長崎県)沿岸の松浦郡平戸島鷹島能古島などを襲撃します。

博多湾は元の大軍の船で覆われます。

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そして10月20日朝、元軍は九州本土に上陸を開始します。

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上陸した元軍と、それ迎え撃つ日本軍との九州本土での戦いが始まり祖原、鳥飼、赤坂の一帯は戦闘の場と化します。

日元両軍の戦闘ですが、銅鑼を叩いて集団で攻撃を行う元と、一騎打ちで戦いを挑む

日本とではその戦い方のスタイルが違います。

日本の武士は一騎打ちのスタイルでまず、開戦の合図となるか鏑矢(かぶらや)を

放ちます。

さらに、武将が前に出てきて「やあやあ我こそは・・・」と名乗りをあげ、

そしてお互いで一騎打ちをする・・・というのが正式な鎌倉武士の戦の方法でした。

「やあやあ我こそは・・」と名乗りを上げているときに、元軍はいきなり集団で襲いかかるわけです。

また元軍は火薬を使った爆発物の「てつはう」や毒矢を使用していました。

 

(元軍の陣地が敷かれ日元の戦闘が起きた麁原山)

博多湾百道浜の後背地にある、標高33メートルの麁原山(そはらやま)、現在は

祖原山公園になっていまて、ここは地下鉄西新駅から海と反対方向に15分ほど歩いた

場所にあります。

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ここに、上陸した元と高麗の連合軍が陣を構えました。今では記念碑があります。

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案内板には、元軍の陣の様子が描かれています。

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            【祖原公園の案内板より】

 

また。この元軍の陣地に対し日本の侍が攻めこんだことから、この地で日元両軍の激戦が繰り広げられました。

この山の山頂の北側下には記念碑が建っています。

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(博多陥落 元軍破竹の進撃)

元寇を記録した「八幡愚童訓」によると、元軍は戦略や兵器では日本軍を上回り、

圧倒的に優位で、日本軍は各地で元軍の猛攻に押しやられ、博多・箱崎も占領され

水城まで退却。しかし元軍は翌日になると撤退したと書かれています。

 

(圧倒的に優勢だった元軍撤退の理由)

戦力の差があり圧倒的に優勢だった元軍。しかしなぜか撤退し博多湾から姿を消します。

高麗の記録では「元軍の指揮官の一人・劉復亨が矢を受けて負傷して船へ退避し、その夜の軍議で大陸への撤退が決まった」とされています。

これから類推するに、元軍は指揮官の負傷で博多湾に停泊していた船に戻り、さらに

撤退したのかもしれません。

 

その撤退のときは、旧暦の10月21日で10月下旬、新暦だと11月下旬です。

冬型の気圧配置になりになり海が荒れていたこと。

さらに、大陸育ちの元軍は大陸での戦闘には強いものの、海上での戦いには慣れていなくて、冬の日本海の荒れた天候に対応できず波に巻き込まれ、船が難破したり遭難した可能性も考えられます。

 

 

・・・ということで史上初の外国軍の本格的侵略であった文久の役は、日本軍は元軍を退けたのでした。

 

・・・ということで

10月19日は、

蒙古襲来第1ラウンドの文永の役が起きた日です。

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