九州福岡県福岡市にある祖原公園。
ここは1274年、最初の元寇=文永の役で九州に上陸した元の陣地が敷かれた場所で、
同時に、ここで日本軍の武士団との激しい戦いが繰り広げられました。
日本本土に初めて本格的に外国が攻めてきたのが、元寇=蒙古襲来、
その第一ラウンド「文永の役」が鎌倉時代の1274年10月19日の夜中から始まりました。
外国の軍隊が集団で日本に上陸して戦闘を行うんですから、これはひどい話しです。
元は1万5000~2万5000人の主力軍に加え高麗軍5300~8000人などをあわせた総計2万7000~4万人の大軍で、現在の韓国南部・馬山を出港しました。
使われた船は725~900艘あったそうです。
元の大軍は、対馬、それから壱岐に上陸し、各地でことごとく人を殺し家屋を焼き払います。
対馬での元との戦いの最中には、武士が脱出し、博多に向かい元軍の襲来を知らせます。
実はここ重要ですよね。もし対馬が全滅したなら、生き延びた武士が蒙古襲来を伝えることが起きず、結果として、何の情報もなしにいきなり元の大軍が博多に襲来するので、日本軍は不意打ちをくらい大混乱になるところでした。
1274年の文永の役から2年後に、日蓮が当時の伝聞を書き留めています。
それによると「元軍は対馬に上陸後、一般人を蹂躙した。男は殺戮、あるいは捕虜とし、女は手のひらに穴を開けて鎖で船の壁に繋いだ」
おいおい!!「手に穴を開けてつないだ??」さりげない文章ですが、これはなんてことを!!!想像しただけでも、気味が悪くなります。
(10月20日博多上陸)
対馬、そして壱岐を殺戮しつくした元軍は、さらに肥前(現在の佐賀県・長崎県)沿岸の松浦郡や平戸島・鷹島・能古島などを襲撃します。
博多湾は元の大軍の船で覆われます。
そして10月20日朝、元軍は九州本土に上陸を開始します。
上陸した元軍と、それ迎え撃つ日本軍との九州本土での戦いが始まり祖原、鳥飼、赤坂の一帯は戦闘の場と化します。
日元両軍の戦闘ですが、銅鑼を叩いて集団で攻撃を行う元と、一騎打ちで戦いを挑む
日本とではその戦い方のスタイルが違います。
日本の武士は一騎打ちのスタイルでまず、開戦の合図となるか鏑矢(かぶらや)を
放ちます。
さらに、武将が前に出てきて「やあやあ我こそは・・・」と名乗りをあげ、
そしてお互いで一騎打ちをする・・・というのが正式な鎌倉武士の戦の方法でした。
「やあやあ我こそは・・」と名乗りを上げているときに、元軍はいきなり集団で襲いかかるわけです。
また元軍は火薬を使った爆発物の「てつはう」や毒矢を使用していました。
(元軍の陣地が敷かれ日元の戦闘が起きた麁原山)
博多湾の百道浜の後背地にある、標高33メートルの麁原山(そはらやま)、現在は
祖原山公園になっていまて、ここは地下鉄西新駅から海と反対方向に15分ほど歩いた
場所にあります。
ここに、上陸した元と高麗の連合軍が陣を構えました。今では記念碑があります。
案内板には、元軍の陣の様子が描かれています。
【祖原公園の案内板より】
また。この元軍の陣地に対し日本の侍が攻めこんだことから、この地で日元両軍の激戦が繰り広げられました。
この山の山頂の北側下には記念碑が建っています。
(博多陥落 元軍破竹の進撃)
元寇を記録した「八幡愚童訓」によると、元軍は戦略や兵器では日本軍を上回り、
圧倒的に優位で、日本軍は各地で元軍の猛攻に押しやられ、博多・箱崎も占領され
水城まで退却。しかし元軍は翌日になると撤退したと書かれています。
(圧倒的に優勢だった元軍撤退の理由)
戦力の差があり圧倒的に優勢だった元軍。しかしなぜか撤退し博多湾から姿を消します。
高麗の記録では「元軍の指揮官の一人・劉復亨が矢を受けて負傷して船へ退避し、その夜の軍議で大陸への撤退が決まった」とされています。
これから類推するに、元軍は指揮官の負傷で博多湾に停泊していた船に戻り、さらに
撤退したのかもしれません。
その撤退のときは、旧暦の10月21日で10月下旬、新暦だと11月下旬です。
冬型の気圧配置になりになり海が荒れていたこと。
さらに、大陸育ちの元軍は大陸での戦闘には強いものの、海上での戦いには慣れていなくて、冬の日本海の荒れた天候に対応できず波に巻き込まれ、船が難破したり遭難した可能性も考えられます。
・・・ということで史上初の外国軍の本格的侵略であった文久の役は、日本軍は元軍を退けたのでした。
・・・ということで
10月19日は、
蒙古襲来第1ラウンドの文永の役が起きた日です。