淡路島を旅行した時に、淡路廃帝と呼ばれた淳仁天皇陵を偶然発見しました。
淳仁天皇は、(じゅんにんてんのう)と読みます。
第47代天皇で、在位期間は758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉- 764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉。
この淳仁天皇は、在位していたにもかかわらず政変に巻き込まれ廃帝となったことから長い間、天皇としてカウントされず、没後1105年を経た明治の初めに、ようやく歴代天皇の1人に認められた天皇です。
下の写真は淡路島にある淳仁天皇陵です。
山形の陵で淡路陵(あわじの みささぎ)と呼ばれています。
淳仁天皇は、天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生します。
父親の舎人親王は、日本書紀の編さんに携わった人として有名ですね。
奈良時代の758年、孝謙天皇の譲位をうけ,藤原仲麻呂(恵美押勝)に推されて第47代天皇として即位します。
在位中は、新銭(万年通宝,大平元宝,開基勝宝)をつくり,旧銭(和同開珎)と併用させます。
しかし、藤原仲麻呂の乱がおき朝廷内のパワーバランスが崩れると,764年、孝謙上皇によって廃帝にされ淡路に流されました。
在位は758年から764年の丸5年でした。
翌年765年、旧暦10月22日に淡路島を脱出しようとしますが、その翌日10月23日、33歳で死去します。
淳仁天皇は、朝廷内のパワーバランスに巻き込まれ廃帝となったことから、長い間天皇としては数えられませんでした。
ようやく1870年(明治3年)に弘文・仲恭天皇とともに歴代天皇にくわえられました。この時、没後1105年たっていました。
(3人の廃帝)
この1870年(明治3年)に新たに天皇にくわえられた、弘文、仲恭、淳仁の3人は「廃帝」と呼ばれていました。
ただし、弘文天皇は壬申の乱でやぶれたため、戦乱の中で即位せずに死亡しています。
廃帝とカウントしない場合もあります。
九条廃帝は4歳で祀り上げられたものの、即位の礼も行われないまま鎌倉幕府の執権北条義時によって78日で退位しています。この「在位78日」は、日本一在位期間が短い天皇の記録となっています。
ということで10月23日は