太平洋戦争中の1944年(昭和19年)10月25日、フィリピン、レイテ沖海戦において
神風特別攻撃隊・敷島隊隊長の関行男海軍大尉がアメリカ艦船に突入し戦死しました。
これは、特攻隊の戦死者第1号であり、関大尉は2階級特進し戦死後に海軍中佐になります。また太平洋戦争最後の軍神にもなります。
(戦闘機による敵艦体当たり)
太平洋戦争では国力と物資に勝るアメリカに押され、日本の情勢は日に日に不利になります。
そして1944年(昭和19年)10月25日、海軍航空隊は、フィリピンのレイテ沖海戦で
戦闘機による体当たり攻撃=特別攻撃(特攻)を行います。
攻撃部隊は、元寇のときに吹いた神風にちなんで神風特別攻撃隊と名付けられました。
神風特別攻撃隊は、江戸時代に本居宣長が大和魂を詠んだ古歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」により命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の4隊が編成されました。
この神風特別攻撃隊の1つ敷島隊の隊長が愛媛県出身の関行男大尉でした。
(10月25日突入す)
敵艦が見つからなかったりして敵艦突入のタイミングが合わず4度目の出撃となった
10月25日、午前7時25分、関率いる6機の敷島隊が出撃します。
下の写真は、特攻からおよそ1か月後の1944年(昭和19年)11月9日に公開された、日本ニュース第232号で紹介された隊員たちの様子です。
一番左が敷島隊隊長の関行男大尉です。
10時45分に敷島隊は、敵艦を発見し49分突入開始。
護衛空母セント・ロースを撃沈させ、同時に関大尉は戦死しました。享年23。
<<この神風特別攻撃隊 敷島隊の模様は
当時の日本ニュースで紹介されています>>
【日本ニュース第232号 1944年(昭和19年)11月9日公開】
(KAのために死ぬ)
関大尉は出撃前に訪れてきた海軍報道班員の小野田氏にこう話しています。
「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。
僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。」
当然ながらこの言葉は戦争が終わるまでは公表されませんでした。
(昭和最後の軍神)
敷島隊の突入から2日後の10月27日、敷島隊の戦果が、朝刊各紙の一面トップで紹介されます。体当たりを行い自分の命を捧げて守るという姿は国民に興奮を与えました。
関大尉の戦死の折は国を挙げての盛大な葬儀となりました。
関大尉は軍神となります、これが太平洋戦争最後の軍神です
関大尉の母親は「軍神の母」として一躍有名になります。
(特攻第一号は??)
1944年(昭和19年)10月29日の新聞で、敷島隊隊長・関行男大尉が「特攻第1号」として大々的に発表されました。
しかし、関大尉よりも前の21日に特攻で消息を絶った大和隊隊長・久納特務中尉がいますが、「敵艦への突入の戦果を確認出来ず」あるいは「海兵出身者を特攻第1号に」との上層部の意向で、関が特攻第1号として公表されたなどと言われています。
また25日には敷島隊に先立つ事約1時間前、ダバオから朝日隊、山桜隊、菊水隊が出撃し関大尉の敷島隊より先に戦果を挙げていますが、戦果報告確認作業や連合艦隊への報告が遅れました。
このようなもろもろの事情で、結果として関大尉の敷島隊の戦果が神風特別攻撃隊の
初戦果扱いとなっています。
(KAは戦後再婚)
「愛するKAのために死ぬ」と言い残し敵艦に突入した関大尉。その奥さんの満里子さんは医学博士の娘さんで、関大尉が死亡した時はまだ22歳。関大尉が生前「自分が戦死したら再婚してくれ」と伝えていたこともあり、1948年(昭和23年)4月に医者と再婚しています。
【関行男大尉に関する書籍はこれがお勧めです】
・・・ということで10月25日は
神風特別攻撃隊第1号 海軍航空隊
関行男大尉敵艦突入の日です