1872年(明治5年)11月9日、太陰暦を廃し、太陽暦を採用することの詔書が発せられ、太政官布告第337号により公布されました。
これにより
①1年を365日、12か月とし、4年毎に閏年を置く
②1日を24時間とする
という事が決められ旧暦の1872年(明治5年)12月3日が
早稲田大学を創設した人物としても有名です。
それまで日本で利用されていたのは、月の満ち欠けを利用した太陰暦でした。
しかしこれでは1ヶ月が短くなりずれていくため、数年に一度は閏月(うるうづき)といって、1年を13ヶ月の閏年(うるうどし)にすることで調整していました。
大隈重信は、太陽暦が太陰歴よりも正確で季節のずれがないこと、さらに殖産興業・富国強兵を進めていく日本が、欧米と同じ制度にしないと貿易などで不都合が生じるとの理由から太陽暦の導入に踏み切りました。
そしてもう1つ経済的な事情で太陽暦を採用したとも言われています。
それは明治政府の懐事情です。
江戸時代は官吏の給与が年俸制でしたが、明治に入ると月給制に変わります。そうなると太陰歴では閏年には給料を13回を払わなければなりません。財力に乏しい明治政府はその支出を抑えるために太陽暦を採用したといいます。
(大砲で時を知らせる「ドン」)
当時は、時計が高価で、庶民が誰もが持っているわけでなく時間がわかりません。そこで庶民はお寺が鳴らす鐘の音で時刻を知るか、
あるいは大砲の空砲の音で時間を知らせるドンという制度で時間を知りました。
これは、午砲台(ごほうだい)と言います。
1871年(明治4年)9月9日、皇居となっていた江戸城本丸跡の庭園で
陸軍近衛師団が昼の12時=正午に空砲を発射し,時刻を知らせました。
やがて午砲の制が定められ全国各地でも毎日、空砲の音で「今、正午になりましたよ」と町中に知らせていました。
大砲を撃つ音がドーンというので、それにちなんで「ドン」と呼ばれていました。
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大坂城の入り口には当時のドンの大砲が飾られています。
(今や太陽暦は世界の主流に)
大陰暦が月の満ち欠けを基準にしているのに対し、太陽暦は、太陽の動きを基準にして定められたものです。 古代エジプトに始まり、ユリウス暦、グレゴリオ暦と改良されていき、現在ではほとんどすべての国が太陽暦を使用しています。
・・・ということで