写真は奈良県の吉野です。
この吉野で、11月17日、源義経の愛人・静御前が捕らえられます。
静御前に関して、史料による記録が見られるのは、「吾妻鏡」だけです。
(義経・弁慶とともに吉野に逃げる)
1185年、平氏を壇ノ浦の戦いで滅ぼしたものの、兄の源頼朝と対立した義経は やがて、朝廷から「義経追悼の院宣」が頼朝に下されてしまったために、朝敵となってしまいます。
そして逃げ延びたのが吉野。
吉水院という修行僧の僧坊、のちの吉水神社に潜伏します。
ここには源義経潜居の間があります。
頼朝や静御前の服がありました。800年ほど前の物です。
(義経と静の別れ)
そこで山伏の姿になり女人禁制の山に逃げるため、静御前と別れます。
生き延びるためには、分かれて逃げるしかありません。
そこで義経は、別れに際し、静御前に宝を与えさらに五人の従者をお供につけてます。
しかし、この5人の従者が財宝や荷物を持ったまま逃げてしまいます。
途方に暮れた静御前は、幾日か山中を歩きます。
(11月17日、静御前身柄を確保)
11月17日 義経が吉野山に隠れているという噂を受け、吉野山の修行僧兵によって捜索を行いますが、見つかりません。
しかし夜に静御前が藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着きます。山中を数日間も歩いていたため、姿がいかにも怪しいと感じた僧兵に見つかります。
吉野にある勝手神社は、静御前が舞を舞った場所だと言われています。
(捕らえられた静御前は翌年鎌倉へ)
静御前を見つけた僧兵たちは修行坊に連れてきて尋問します。
ここで、静御前は、自分が義経の妾であること、お供の5人に財宝を奪われたことを
話します。
こうして捕らえられた静御前ですが、吉野の修行僧は静御前を大事に扱い、12月8日に京都にいる北条時政のもとに送ります。
そして翌年1186年3月1日 に静御前は、母の磯禅師と共に鎌倉に到着します
鎌倉に着いた静御前は義経の子を産みますが男の子だったので殺害されます。
その後、母親とともに京都に返されますが、その後は消息不明となります。
(日本一の白拍子・静御前)
また『義経記』によれば、京都で日照りが続いたため、後白河法皇が大内裏の横にある神泉苑という天皇の庭園にある池に100人の僧を集め雨乞いの読経させたが効果がなかったため、改めて100人の綺麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせることにしました。
白拍子が雨乞いの舞を舞っても99人までは、まったく効果がありませんでした
100番目の白拍子の静御前が舞うと、すぐに雨雲が現れ3日間雨が降り続きます。
このことから静御前は後白河法皇から「日本一」の宣旨を賜ります。
また、後日行われた住吉での雨乞いの時に、初めて静御前を見た義経が惚れてしまい
妾にしたそうです。
・・ということで11月17日は、
(参考)
吉野は史跡の宝庫です。ここもご覧ください!!