11月21日、平将門の乱が起きます。
乱を起こした平将門は、千葉県西部の下総を本拠地としていた豪族・平良将の子で
903年頃に生まれた様子です。
出自は桓武天皇を先祖に持つ系統で、宇多天皇の勅命にて平姓を賜与され臣籍降下した氏族です。
(一族の争いから関東一円を巻き込む)
将門の乱は、下総国、常陸国に広がった平氏一族の争いから、やがては関東一円を巻き込む争いへと発展します。
平将門は、戦いに勝利し下野と上野へも進軍して支配し、関東一円を手中に収めます。
(自ら新皇と称す)
12月19日に上野国府で新皇を自称し、岩井(現在の茨城県坂東市)に政庁を置き、
独自に坂東8カ国の国司を任命しました。
これで将門が治める坂東8か国は、京都の朝廷に対して事実上の独立地域となりました。
京都の朝廷には朱雀天皇がいましたので、この時期には日本に京都の朝廷と自ら新皇と称した将門が治める国の2つの政権が存在したことになります。
(将門追討)
関東各地の国府を占領したこと、新皇としょうしたこと、この2つは朝廷に
「将門謀反」として伝わります。
940年、将門追討として参議の藤原忠文が征東大将軍に任じられ、平安京から出陣します。その藤原忠文が関東に到着する前に、平将門は平貞盛・藤原秀郷連合軍と戦います。
940年2月14日、茨城県坂東市の下総猿島郡の合戦で将門は討ち取られ、この反乱は
終了しました。
最後は矢が額に当たって、平将門は討死したと伝わります。
反乱から3か月、新皇として即位したわずか2か月たらずでした。
平将門の首は平安京へ運ばれ、七条河原にて晒し首となりましたが、日本の歴史上で
確認される最も古い獄門の事例となります。
【都内にある1日で行ける将門ゆかりの地】
都内には将門ゆかりの場所が複数ありますが、是非抑えて欲しいのが以下の3つです。
(将門首塚)
都内のオフィス街・大手町のど真ん中にある「将門首塚」
京都からの軍勢に打ちとられた将門は、その首は京都の都大路でさらし首になりますが、「さらし首になっても、怒りが収まらず将門の首がこの地に飛んできた」という
伝説でできたのが、この首塚です。
将門の怨念はすさまじく、この塚に失礼な事をしようとした人がケガをしたり、最悪の場合は命を落とすなど不幸が相次いだといいます。
その一方で、ご利益もあります。ここにお参りすると「栄転する」らしいです。
【将門の首塚について書いたブログはココ】
<<将門首塚への行き方>>
地下鉄東京メトロ・都営地下鉄の大手町駅C5あるいはC6から出てすぐ
住所:東京都千代田区大手町1-2-1
(神田明神)
ここに祀られている御祭神の中に平将門があります。
神田明神は730年に創建されましたが、元々は現在の場所ではなく、
上記に書いた千代田区大手町の将門首塚があった場所にありました。
現在は、お茶の水に移りましたが、神田明神には、一の宮・だいこく様、
二の宮・えびす様、三の宮・まさかど様の3柱が祀られていて、
この「まさかど様」が平将門のことです。
三の宮・まさかど柱は、勝利のご利益があるそうです。
<<神田明神への行き方>>
御茶ノ水駅より徒歩5分
住所: 東京都千代田区外神田2丁目16-2
(鎧神社)
この神社は、平将門の鎧が埋められていることから、鎧神社と名付けられています。
この松の木が目印です。
940年、平将門が藤原秀衡に討たれると、この地の人々はその死を悼み、
将門の鎧をここに埋めたと言われています。
【鎧神社について書いたブログはココ】
<<鎧神社への行き方>>
JR大久保駅から徒歩10分程度、 JR東中野駅から徒歩15分程度
住所:新宿区北新宿3-16-18
【史跡将門塚保存会公式HP】
11月21日は、平将門の乱がおきた日です。