【水師営での写真(出典「日露戦役写真帖第13-14巻」:国立国会図書館ウェブサイト・デジタルコレクション)】
上記写真は、日露戦争の中で両軍合わせて約8万7千人もの死傷者を出した旅順攻囲戦でロシア軍が降伏した後の水師営(すいしえい)の会見での記念写真です。
一見すると同盟国の記念撮影のような和やかな雰囲気を醸し出していますね。
負けて降伏したロシア軍勢は通常、降伏した側には許されない帯剣姿、しかも軍装で
勲章もつけています。
これは明治天皇からの「武士の名誉を保たしむべき」との聖旨を受けて、敗将の名誉を重んじたもので、これぞ武士道です。
(旅順攻略)
日本陸軍第三軍は、8月と10月の2回に旅順総攻撃を行いますがいずれも失敗します。
3度目となる第3次旅順総攻撃は1904年(明治37年)11月26日から翌年の1905年(明治38年)1月1日まで行われました。
第3回総攻撃では攻撃目標を要塞ではなく、旅順北西側にある二〇三高地に変更します。
二〇三高地は標高203メートルの丘陵で、その頂上からは旅順港を一望に見下ろせます。そのため。そこから砲撃を行えばロシア艦艇を沈めることが可能となります。
二〇三高地をめぐる攻防は歴史に残る激戦となり、日本陸軍は、ロシア軍のコンクリートで固められた要塞や機関銃に苦戦しつつも12月5日に二〇三高地を占領します。
(旅順の露軍降伏)
占領した二百三高地からの旅順港への砲撃で、同11日までに港内のロシア軍艦は
全滅します。
【破壊されたロシア戦艦の写真(出典「日露戦役写真帖第13-14巻」:国立国会図書館ウェブサイト・デジタルコレクション)】
(1月1日露軍降伏)
ロシア軍は二百三高地が陥落し、その後の戦闘で予備兵力が枯渇していきます。
コンドラチェンコ少将が戦死した中でも抗戦抗戦という姿勢を捨ていませんでした。
しかし艦隊の全滅でロシア兵の士気は低下し、東北面の主要保塁が陥落したことで1905年(明治38年)1月1日に、旅順要塞司令官ステッセルは、抗戦を断念し、1月1日16時半に日本軍へ降伏を申し入れます。
下の文書がステッセル将軍より乃木将軍に送られた書簡です。
「引用:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06041211500、明治38月1月1日発
日本陸軍はこれを受けて、1月2日戦闘が停止され、旅順要塞は陥落します。
これによってロシアが「3年は支えることができる」と豪語した旅順要塞が約5ヶ月で陥落します。
(旅順開場)
翌2日、水師営で日本側の全権である旅順攻囲軍参謀長の伊地知幸介陸軍少将、岩村団次郎海軍中佐と、ロシア側の全権である関東州要塞地区参謀長のレイス陸軍大佐、シチェンスノヴィッチ海軍大佐との間で話し合いが催され、旅順の明け渡しに際してまとめた「旅順口開城規約」が定められました。
(水師営の会見で見せた武士道)
下の写真は水師営に到着するステッセルを撮影したもので、時刻は1月5日午前10時40分と記録されています。
【出典「日露戦役写真帖第13-14巻」:国立国会図書館ウェブサイト・デジタルコレクション】
この水師営の会見では、乃木大将は、ステッセルに対して紳士的に接し、通常許されないはずの帯剣を許し酒を酌み交わします。
また従軍記者が写真撮影を勧めますが、乃木は「敵将(ステッセル)に失礼ではないか
後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ」と伝え
昼食をとったのち、中庭に出て1枚だけ、しかも全員集合の記念写真を撮影させステッセルらロシア軍人の名誉を重んじます。
このときの写真がこれです。
大本営写真班が撮影した「日露戦役写真帖」に掲載されています。(1905年・明治38年6月20日発行)
【水師営での写真(出典「日露戦役写真帖第13-14巻」:国立国会図書館ウェブサイト・デジタルコレクション)】
上記写真には「明治三十八年一月五日午後一時三十分ノ光景」と書かれています。
撮影された人は
3列目右より
渡辺管理部長、松平副官、マルチェンコ中尉、安原参謀、川上事務官
2列目右より
伊地知参謀長、ステッセル中将、乃木大将、レイス参謀長
前列右より
津野田大尉、ネベルスコーユ参謀
この水師営での乃木の振る舞い、敗軍の将をたてる武士道は、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛されます。
(乃木大将の気配り)
水師営前日の1月4日、長い間、籠城を続けていたロシアの将校の栄養状態を考慮し
ブドウ酒や、鷄や、白菜などを送り届けています。
また、同日、水師営の会見の下見に来た乃木将軍は、会見場に残る弾痕を覆っていた
新聞を目にして、ある部分の新聞を白く塗るように指示しました。
実は、新聞のその部分にはロシア軍敗北の記事で満たされていたからです。
乃木将軍の相手に恥をかかせまいとする気配り、姿勢がうかがわれます。
(さらに続く乃木の武士道)
乃木のステッセルに対する「敗軍の将軍への配慮」は、日露戦後も続きます。
日露戦争後、ステッセルは敗戦責任を追及され死刑になろうとしました。
このとき乃木大将が、助命運動を行い、ロシア皇帝に「嘆願書」を出します。
その結果、減刑され禁固10年の刑となりました。
さらに出獄したステッセルが生活に困窮していることを知った乃木は自分の名前を伏せて、送金をしています。 相手を重んじる、これぞ武士道です!!
ステッセルは晩年、「乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」と語っていたそうです。
なお、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載されます
※今回、このブログで紹介した貴重な写真は、国立国会図書館デジタルコレクションにある「日露戦役写真帖の第13-14管です。その他貴重な写真がありますので
御覧下さい。
さて、水師営での乃木将軍の姿勢に対し40年後の1945年(昭和20年)
太平洋戦争で敗れた日本の降伏調印式が行われましたが、
この時の戦勝国の態度が、いかに敗戦国を馬鹿にしたものかを
下をクリックして御覧下さい。
この映画を薦めます
・・・ということで1月5日は