前年の1988年(昭和63年)後半より腸からの出血が続き(当時は下血(げけつ)と言っていました)容態が危ぶまれていた昭和天皇が1989年1月7日(土)に逝去しました。
(目が覚めたら昭和天皇が亡くなっていた)
昭和天皇は亡くなる前年の秋頃から天皇の容態が悪く、TVでは夜中に皇居の生映像が
放送され字幕で、宮内庁発表の、「天皇の下血、脈拍」が紹介されていました。
ちょうどソウル五輪と同じ時期です。
天皇の容態が思わしくないので世の中は自粛ムードでお祭りや大騒ぎは御法度でした。
おっさんは昭和最後の日・1989年1月7日(土)のことを良く覚えています。
当時は学生でした。
天皇が崩御した日、目が覚めたときに何か違和感を感じたので急いでTVのスイッチを
1989年(昭和64年)1月7日(土)午前6時33分、吹上御所で崩御されました。
天皇崩御を知ってからはずっとNHK総合テレビを見ていました。
昭和を振り返る映像番組が延々と放送されていて、面白かったし、懐かしい部分もあったのでずっと見ていました。
また、昼ご飯を食べるときに街に出て「天皇崩御の新聞号外」をもらいました。
やがて新元号「平成」が決まります。
(レンタルビデオ店大盛況)
この時期、TVは自粛で崩御の日は昭和を振り返る企画番組が相次いだため
レンタルビデオ店が大盛況でした。
そして昭和最後の日が終わった1月8日0時0分に、TV画面に大きく習字で書いた「平成」の文字がデーンと出てきました。
このとき、年号が変わる瞬間にジャンプをしたので、平成になった瞬間は地上にいませんでした。
(健康がすぐれなかった大正天皇に代わり摂政に)
昭和天皇の父親の大正天皇は幼少時から健康に優れず第1次大戦期には十分に政務を
行うことが困難でした。
そのため、長男の昭和天皇は天皇に即位する以前の皇太子時代の1921年(大正10年)
から摂政になり国事行為を行っていました。
年号の「昭和」は中国の古典「書経(しょきょう)」にある「百姓昭明 万邦共和」からとったものです。
昭和は、大化以降246番目の元号で、天皇の在位期間は1926年12月25日から1989年1月7日までで、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号です。
最初の「昭和元年」と最後の「昭和64年」は双方とも7日間あるため、昭和の期間は62年と14日です。
(年号間違え!!)
下は東京日日新聞が出した号外です。大正天皇崩御とともに次の新元号が「光文」と
発表されています。しかし、正解は「昭和」でした。
こちらが正確な「年号」速報。
中国にできた満州国、この満州国の皇帝となった溥儀は、1935年(昭和10年)、そして5年後の1940年(昭和15年)に来日をします。
満州国皇帝の溥儀の来日は、いずれの時も日本では国を挙げての大歓迎でした。
特に、昭和天皇がわざわざ東京駅のホームに出迎えに来るという最恵国待遇を
行います。
日本の天皇がわざわざ相手を迎えに行くということは史上初であり,このような
対応を受けた国家元首は今までも含めて史上唯一の出来事です。
下の写真は、2度目の来日1940年(昭和15年)6月26日、午前11時30分に特別列車で東京駅第3ホームに到着した時の模様です。
【満州国皇帝入京を伝える日本映画ニュース特報】
(ライフスタイルや価値観が大きく変わった昭和の時代)
昭和の時代は、帝国主義から民主主義と大きく時代が動き、また技術が発展し、人々の生活、暮らしぶりも大きく変わりました。
・・・ということで1月7日は