1月13日は、
「吾妻鏡」によると1199年に源頼朝が53歳で亡くなった年です。
源頼朝と言えば 源氏の棟梁であり日本史上初の全国規模の武家政権となる鎌倉幕府を開いた人です。日本史の本では必ず出てきます。
(不幸な死に方をした頼朝の子供たち)
源頼朝の子供たちはいずれも不幸な死に方をしています。
頼朝の家族構成を見てみます。
【頼朝の家族構成】
長女の大姫はメンタルがやられ悲惨な最期を遂げます。
【頼朝の長女:大姫の死について書いたブログはココ】
長男で嫡男で2代鎌倉将軍の頼家は、修善寺で殺害されます。
その弟の3代将軍の実朝は頼家の子供の公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されます。
次女の三幡も短命でした。
頼朝の死に関しては歴史書「吾妻鏡」には、以下のように描かれています。
源頼朝は、御家人である稲毛重成の亡妻の供養のために相模川にかけた橋の完成祝いに出掛けます。
そして、その帰りに稲村ガ崎で落馬し17日後の、1199年1月13日に53歳で亡くなります。
一部では乗馬中に脳卒中を起こし落馬したのではないかと言われてます。
頼朝の墓は、源氏の神社・鶴岡八幡宮から少し歩いた場所にあります。
鎌倉幕府があった大倉幕府跡は、現在は清泉小学校になっていますが、
この大倉幕府跡は源頼朝の私邸でもありました。
【鎌倉幕府跡地訪問について書いたブログはココ】
その大倉幕府跡(現在の清泉小学校付近)を見下ろす丘に源頼朝のお墓がありました。
階段を登って丘に登ります。
これが源頼朝の墓です。
江戸時代の1779年(安永8)に島津重豪によって建てられたもので高さ186cmの
五層の石塔です。
源頼朝と言えば有名な歴史上の人物ですが、彼のお墓は実にシンプル。
幕府創始者なので豪華な墓だと思い込んでいたのですが、意外と質素で、
正直拍子抜けしました。
(法華堂)
頼朝の墓がある丘の一帯は、広い敷地で、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂と呼ばれていました。
頼朝と合わせて 北条義時の墓もあります。
北条義時は、頼朝の妻・北条政子の弟で、いわば頼朝の義理の弟。
鎌倉幕府2代執権でした。
鎌倉には鎌倉幕府関係の史跡があり1日で周れます。
<<源頼朝の墓への行き方>>
JR鎌倉駅から徒歩25分程度
住所:鎌倉市西御門2-5
鶴岡八幡宮、鎌倉幕府跡が近くにあるので、あわせて見学した方がいいですよ。
源頼朝が死亡した日です。