現在宮崎空港があるこの場所は、太平洋戦争中は海軍の赤江飛行場がありました。
この周辺には今も当時使用した掩体壕(中攻用・小型機用)およびその関連施設が残っていて見ることができます。
赤江飛行場のように、1つの地域に大小の掩体壕が数多く集まって残っているのは
全国的に珍しいそうです。
そこで今回は 現存する小型機用の掩体壕を紹介します。
(3基残る小型機用掩体壕)
赤江飛行場で使用し、今も残っている小型機用の掩体壕は3基あり、近くに固まって
いました。
撮影した時が逆行だったので見にくくて恐縮ですが、下が現地に掲げられていた案内板です。
では現地にあった案内板の写真をもとに現存する小型機掩体壕を見て見ます。
なお、①と⑤は現存しないので②.③.を見ていきます。
なお④は時間の都合上行きませんでした。お許しください。
これは、赤江五号掩体壕と言うそうで、道端にありました。また案内板もありました。
横から見ることんな感じです。
中は頑丈な作りです。
こちらは赤江六号掩体壕と言います。
ここは私有地ですが、案内してくれた郷土史家の方のご友人という事で見学させて頂きました。
下の写真右下部分、椅子の下にある石、これ気になりませんか??
レール跡のように思えますが、詳細は不明です。
(赤江飛行場の歴史)
赤江飛行場は1943年(昭和18年)12月1日に海軍航空隊の練習基地として完成し、
翌年には作戦基地に昇格します。
第1回の出撃は1944年(昭和19年)10月12日で行先は台湾沖上空です。
同じ頃からは、赤江飛行場周辺で掩体壕群が建造されます。
掩体壕とは敵の攻撃から戦闘機などを守るために、それらを隠す目的で作られた物です。
現地の案内板には、海軍零式戦闘機(ゼロ戦)が格納されている写真がありました。
また、1945年(昭和20年)3月18日に米国艦載機による宮崎初空襲が起きますが
第721航空隊戦闘三〇六・三〇七飛行隊の防戦に記録があることから、この格納庫はゼロ戦などの小型戦闘機用だと推測されます。
(現存する貴重な歴史の証人)
宮崎の赤江飛行場周辺では、掩体壕が有蓋中型7基・有蓋小型7基・無蓋中型37基が作られました。
そして終戦となり赤江飛行場の約7割を占めていた無蓋掩体は戦後すぐに破壊されました。
現在は有蓋中型4基と有蓋小型3基を残すのみとなっています。
<<赤江飛行場小型機掩体壕に行くには>>
これは車で行くべきですが、初めての方にはわかりにくいです。
天孫降臨の地・宮崎に作られた小型機用掩体壕は、今もその姿を見ることができます。