太平洋戦争中の
1942年(昭和17年)2月15日(日)午後7時50分
陥落させます。
しかも無条件降伏です。
(10日足らずの戦闘で陥落)
シンガポールは難攻不落の要塞と言われ、またこの時点でイギリス兵の兵力は日本兵の2倍でした。
日本軍は 1942年2月8日、シンガポール島に対して砲撃と飛行機による爆撃を行い、
その夜、マレー半島とシンガポールの間を隔てる「ジョホール水道」を渡りシンガポールに入ります。
シンガポールとマレーシアを結ぶのがコーズウェイ橋です。
【シンガポール総攻撃のニュース映像:2つあります】
(白旗を掲げ英軍降伏)
シンガポール上陸後、日本軍とイギリス軍の間で激しい戦闘が続きます。
2月15日、英軍は白旗を掲げ、会見場のフォード自動車会社跡に現れます。
ここで、日本陸軍第二十五軍司令官 山下奉文中将と、マレー軍総司令官パーシバル中将との間で会見が行われます。
(イエスか、ノーか)
会見で山下は「我が軍の望むところはイギリス軍の無条件降伏である。」と問うと
敵将パーシバルは即答をせず、あるいは明日に、あるいは数時間後にと返答します。
そこで山下は「明日とは何か、即刻の返答無くば全軍に命じて猛攻撃を開始する、
それでも良いか」と言うと、パーシバルは沈黙します。
さらに山下は、「無条件降伏か、イエスか、ノーか」と最後の決定を促します。
そして午後7時50分、シンガポール島要塞の英軍を無条件降伏させます。
山下将軍とパーシバルの会見の様子は当時のニュース映像に収められています。
【シンガポール英軍無条件降伏の映像:2つあります】
(シンガポール陥落で大騒ぎ)
【シンガポール陥落 東條首相の演説はココ】
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大英帝国のアジアの拠点・シンガポールの陥落で国内各地で大祝賀会が開催されます。
日比谷公園では、東条英機首相も参加し、今回のシンガポールの陥落とそれ以前のマレー作戦や真珠湾攻撃の成功を祝う「大東亜戦争戦捷第1次祝賀国民大会」が開催されました。
【日比谷公園前広場での
大東亜戦争戦捷第一次祝賀国民大会の映像はココ】
東京以外でも陥落祝福!
(シンガポール陥落記念切手)
シンガポールが陥落した翌日の1942年(昭和17年)2月16日、逓信省はシンガポール陥落記念切手を発行します。
この切手は、陥落が決定してから発行を決めたのではなく、あらかじめ陥落を想定し
用意されていたものです。
図柄は2+1銭切手に日露戦争の陸の英雄・「乃木希典」、4+2銭切手には日露戦争の海の英雄「東郷平八郎」の肖像画が描かれています。
この図柄は当時、普通切手として使用されていたものを流用しており、「シンガポール陥落」「+1」「+2」の文字が加刷されているのも特徴のひとつです。
シンガポール陥落記念切手は、寄付金付き切手としての発行となり、額面のそれぞれに寄付金が上乗せされ、当時の軍事費募金や国防献金へと使用されました。
(F機関の防諜活動)
軍事同様に英国領シンガポール陥落工作として重要な役割をしたのがF機関です。
陸軍は開戦前の1941年(昭和16年)9月、謀略課である参謀本部第二部第八課の藤原岩市少佐ほか陸軍中野学校卒業生らを招き、反英の秘密結社で諜報機関の「F機関」をタイに設立します。
「F機関」の「F]は、藤原機関長の頭文字「F」、フリーダム(自由)、フレンドシップ(友情)の頭文字「F]に由来します。
このF機関がシンガポールなど南方情報の収集を行なっていました。
(昭南島へ)
1942年(昭和17年)2月15日に陥落したイギリス領シンガポールは
昭和の南の島=昭南島(しょうなんとう)と改名されました。
(♪昭南のはても、樺太も)
は卒業式の歌として知られている小学校唱歌「蛍の光」、第一節の「ほたるの光、まどの雪」は有名です。
この第四節は、「千島のおくも、おきなはも、やしまのうちの、まもりなり」となっていました。
ところが、日清戦争で台湾を、日露戦争で南樺太を獲得した結果、
明治末期にはこの歌詞が、「台湾のはても、カラフトも…」と変わります。
そしてこの太平洋戦争のシンガポール陥落で、第四節は「昭南のはても、樺太も」と
かわりました。
昭南は、終戦後の1945年(昭和20年)9月12日、日本軍が降伏文書に調印し
イギリスに公式に返還されます。
2月15日は
シンガポールが陥落した日です。