開戦の翌年1942年(昭和17年)3月6日、
九軍神が発表されます。
(九軍神とは)
1941年(昭和16年)12月8日、日本軍がハワイ真珠湾奇襲を行ったとき5隻の特殊潜航艇が出撃しています。
翌年の3月6日、大本営はこの潜航艇が戦艦アリゾナを撃沈する大戦果をあげたと発表します。
この発表では、未帰還となった海軍大尉(戦死後に海軍中佐)岩佐直治ら以下の9名が「9軍神」とされます。これが、日本の特攻作戦の第一歩となりました。
【九軍神の大本営発表映像はココ】
(特別攻撃隊合同海軍葬)
命を捧げて攻撃したという九軍神の精神は日本人に感動を与え大人気となります。
九軍神が発表された翌月の4月8日、東條首相,嶋田海軍大臣らが参席し日比谷公園葬場で特別攻撃隊合同海軍葬が行われ、多くの市民が押し掛けました。
その模様は当時の映画ニュースで広く紹介されました。
【特別攻撃隊合同海軍葬の映像は下をクリック】
(捕虜第一号)
5隻の特殊潜航艇に2人ずつ乗り込んだならば10名のはず。
もう1人いるはずだが、その一人はどうなったのか?
そう考えますよね。
特殊潜航艇が真珠湾内に潜入する前に座礁してしまい、このままでは特殊潜航艇が敵に接収され、研究されるため、それを防ぐために船に爆弾を仕掛けて脱出した人がいました。
酒巻和男さんです。
酒巻和男さんは、同乗していた稲垣清二さんと一緒に脱出しますが、途中でははぐれてしまいます。
結局、酒巻さんは、気を失った状態でハワイの海岸に漂着したのを発見され米軍の捕虜となります。これが太平洋戦争における日本人捕虜第一号です。
酒巻さんが捕虜になったことはアメリカがすぐにラジオで放送しますが、日本はこれを黙殺します。
この時代、「生きて虜囚の辱めを受けず」の教えが浸透していて捕虜になることが恥とされていたため、日本では酒巻さんの存在は不問とされていました。
ですから人数的には1人足らない九軍神なのです。
酒巻さんはその後アメリカ大陸の捕虜収容所に送られます。このとき、顔バレしないようにと証明写真を撮る際も、顔にタバコの火をつけてあばたをたくさん作り変装したそうです。
実は、終戦後に、おっさんの友達のお母さんが、酒巻さんの家の近くに住んでいてよく話したそうで、酒巻さんは。真面目な方だったそうです。その後、酒巻さんはブラジルに行きトヨタの現地法人である「トヨタ・ド・ブラジル」の社長にも就任しています。
酒巻さんの体験はご自身が「捕虜第一号」という手記を出版していて、現在も販売されています。
(九軍神慰霊碑)
瀬戸内海側に面している愛媛県伊方町三机にある「須賀公園」(すかこうえん)。
ここ三机湾は、ハワイの真珠湾に地形が似ていることから、海軍の訓練基地に選ばれ、真珠湾奇襲を想定し日々訓練が行われました。須賀公園の一角に「九軍神」の慰霊碑があります。
遠いのですがいつかは足を運んでみたいと思っています。
【一般社団法人愛媛県観光物産協会 いよ観ネットHPの須賀公園】
このHPには九軍神のことははっきりとは書かれていません。
やはり戦争中の事ですから軍国主義につながるという事ではっきりとは書けないのでしょうか?
(戦艦アリゾナを撃沈したのは??)
大本営は、真珠湾攻撃で5隻の特殊潜航艇が出撃し戦艦アリゾナを撃沈する大戦果を
あげたと発表しています。
しかし、真珠湾攻撃時の攻撃隊総隊長を務め、「トラ トラ トラ(我、奇襲ニ成功セリ)」を打電させた淵田美津雄は、その回想録には、「戦艦アリゾナは飛行隊の攻撃により轟沈したものの特殊潜航艇を軍神として宣伝するため、手柄を譲るように求められた」と記述しているそうです。
・・ということで3月6日は
九軍神が発表された日です