口は禍の門・・・
それを証明する事件が3月15日に起きました。
(大戦不況と震災のダブルパンチ)
当時の時代背景を見て見ます。
1927年(昭和2年)当時、第一次大戦後の不況と1923年(大正12年)に首都・東京に壊滅的打撃を与えた関東大震災の影響で経済混乱が続いていました。
欧州が戦場となった第一次大戦、日本は、戦争物資を中心に輸出が伸びて、好景気を
迎えます。
この機に急成長したのが鈴木商店でした。
鈴木商店は、第一次世界大戦が勃発すると、大戦の長期化、さらに物不足を予測して、一斉に買いの指令を出し、投機を仕掛け、これが成功し巨万の富を得ます。
1917年(大正6年)には当時の日本のGNPの1割に相当する売り上げを記録し、日本1の総合商社となります。
鈴木商会は、一時は三井・三菱を超え、スエズ運河を通過する船の1割が鈴木商店の船と言われるほどでした。
鈴木商店はおよそ80の事業会社を設立しました。その中には帝国ビール(現在のサッポロビール)などの大手企業が含まれています。
しかし大戦終了後の不景気と震災の影響で鈴木商店は経済的に苦しくなり、台湾銀行に借入をしてしのいでいました。
(3月14日に片岡蔵相が国会で失言)
前日の3月14日、東京渡辺銀行が休業を大蔵省に報告します。
その内容を若槻礼次郎内閣の片岡直温蔵相(68才)が予算委員会での審議中に「(法案審議がもたもたしているから!)東京渡辺銀行が倒産してしまいました!」と発言しました。
しかし、これ実は、渡辺銀行は倒産せずにすんでいたのです。
しかし、蔵相が誤った情報を公の場でしゃべってしまったのです。おいおい!!
この発言で、翌3月15日、蔵相から破産を宣告されたとして渡辺銀行と系列の銀行に、自分の預金を引き出そうと客が殺到し取り付け騒ぎが起きます。
さらに京浜地区にある他の中小銀行にも預金者が殺到し第八十四銀行なども休業に追い込まれました。
動揺した預金者は他の諸銀行にも取り付けに殺到したため、休業に追い込まれる銀行が続出します。
これが昭和金融恐慌の始まりです。
これに連動し 台湾銀行も新規の融資の打ち切りを通達し、4月5日には鈴木商店も事実上停止となります。
【鈴木商店について書いたブログはココ】
(高橋是清の活躍)
この発言がもたらした影響に対し有効な手を打てなかった若槻礼次郎は
この年の4月20日に内閣を総辞職し、代わって立憲政友会の田中義一内閣が発足します。
4月22日、蔵相の高橋是は、モラトリアム(支払猶予令)を出し、3週間の支払い停止と銀行の3日間休業を行いました。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
高橋是清の命を受け、全国の銀行は22日金曜、23日土曜、24日日曜の3日間休業します。
そして、その間に日本銀行に200円札を大量に刷らせ全国の銀行にばらまきます。
この時、是清の指示で刷られたのが、表だけ印刷してあり、裏が白い200円札です。
紙幣の歴史の中でもこのような紙幣は相当珍しいですね。
3日後、25日の月曜日、銀行が再開しましたが、すでに大量のお金が銀行にあることを知っていた人々はおパニックを起こすことなく行動し、この取り付け騒ぎは終わりました。
・・・ということで3月15日は
前日の蔵相の失言で、金融恐慌が起きた日です。
発言は慎重に!!