終戦の年の1945年(昭和20年)3月26日、
硫黄島は東京都の島で、都心からは約1200km離れた島。直径は北東から南西にかけて8km未満、幅は北部で4km、南部で800mという小さな島です。最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山でした。活火山があり、島の表面が硫黄の堆積物で覆われていることから「硫黄島」と名付けられました。
(玉砕1か月前の硫黄島の映像)
1945年(昭和20年)2月16日の硫黄島で米軍を迎え撃つ様子を紹介している映像がありました。
下をクリックして御覧下さい。
【玉砕1か月前の硫黄島の様子を紹介した日本ニュース】
(硫黄島の戦い)
太平洋戦争の末期である、1945年(昭和20年)2月19日から3月26日までの約1ヶ月間、東京都の小笠原諸島のひとつである硫黄島で日本軍とアメリカ軍の戦い=「硫黄島の戦い」が繰り広げられました。
この戦いは、太平洋戦争後期の上陸戦でアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った大激戦でした。
(日本本土空襲の重要拠点として)
米軍が硫黄島を狙ったのは、日本本土爆撃のための、中間地点を確保するためでした。硫黄島を占領することで戦闘機の長距離飛行のリスクが軽減できます。
そのため日本軍は、一日でも長く、硫黄島を守り続ける、もたせることが必要でした。
(2月19日米軍硫黄島上陸開始)
1945年(昭和20年)2月19日早朝、米軍は硫黄島を大小の艦船450隻で取り巻き、一斉に砲撃を開始。
その後、艦載機120機で約10分間、ナパーム弾を投下。さらに再び艦砲射撃を行い
上陸前に大攻撃をしかけます。
米軍の勢力は約11万人。一方、硫黄島守備隊は栗林忠道中将が指揮する2万1000名でした。(陸軍14000、海軍7000)。
(地下坑道での抗戦)
日本軍守備隊は、地下に坑道を張り巡らせた陣地を構築し徹底抗戦する戦術をとります。
栗林中将は「敢闘の精神」六カ条を定めていました。
それには、爆弾を抱いて戦車にぶつかり、日本兵一人で米兵十人を殺戮すること、最後の1兵になってもゲリラとなって戦うなどの決意が示されていました。
上陸5日目の2月23日、午前10時15分、米軍第2大隊E中隊は摺鉢山頂上へ到達し星条旗を掲げます。
【ワシントンDCにある海兵隊戦争祈念碑】
(3月15日米軍 硫黄島占領を発表)
しかし、摺鉢山に星条旗が翻っても、硫黄島守備隊はゲリラ戦として攻撃を継続します。
3月15日、アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表します。しかし戦闘はまだまだ続いていました。
3月17日、硫黄島守備隊の司令部は大本営宛に訣別の無電を打ちます。
これを受けて21日に大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表しました。
その後も突撃を中心にした日本軍のゲリラ戦が続きます。
(3月26日栗林中将自決)
そして3月26日午前5時過ぎ、栗林はアメリカから獲得したバズーカ砲などの武器を携え部下とともに米軍陣地に突入します。
この戦いは3時間かかりますが、栗林は右大腿部に重傷を負い、近くの洞窟で自決したといわれています。享年53。
当初アメリカ側が想定した占領必要日は「5日」でしたが予想以上の日本軍の攻撃に
苦戦を強いられ、一か月以上かかりようやく硫黄島を占領します。
その後も一部生き残った日本兵による小規模な抵抗が終戦後も続きました。
(米軍の損害が多い戦い)
硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち17,845-19,900名が戦死します。
いっぽうアメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の計2万9000人近くが[損害を受けました。
また、硫黄島上陸初日の米軍の戦死者数は501名で、1日の戦闘によって生じた戦死者数としては海兵隊創設以来史上最高数(2022(令和4年)3月26日現在)です、
米軍は日本軍守備隊を指揮しアメリカ軍を苦戦させた司令官の栗林に対し「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と高い評価を下しています。
そして激戦の末、硫黄島を獲得したことでアメリカ軍は日本本土に対する航空戦で極めて重要な立場となります。
(摺鉢山にある顕彰碑)
日米大激戦が繰り広げられた硫黄島の摺鉢山山頂には「日本戦没者顕彰碑」、「特攻隊慰霊碑」などが設置されています。
【小笠原村公式サイト】
・・・ということで3月26日は