安徳天皇が利用したという井戸が
安徳天皇の「風呂の井戸・風呂の地蔵」は、門司駅南口から徒歩約10分の場所、住所で言うと福岡県北九州市門司区柳町2丁目10番にあります。
なぜ、安徳天皇の井戸が九州にあるかと言うと・・・。
(木曽義仲に追われた平家一門がたどり着き
疲れをいやした井戸)
1183年、木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西下し、豊前国の
柳が浦、現在の門司区大里(だいり)にたどり着きます。
安徳天皇はこの時、数え年で5歳。
この地にあった鏡ヶ池という池の水を安徳天皇の旅の疲れを癒すための風呂の水としたことから「安徳帝風呂の井戸」と呼ぶようになったそうです。
(バス停のすぐ近く)
この「風呂」は西鉄バスの高田2丁目バス停のすぐ近くにあります。
下の写真で赤で囲んだ部分です。
近くに寄るとこんな感じです。
石碑、石の像、井戸、祠があります。
石碑には「平家史跡 風呂の地蔵」と刻まれています。
「風呂井戸」と刻まれた石と昔懐かしのポンプがあります。
「風呂井戸」と刻まれた石、その右上には「安徳天皇」の文字が見れます。
(地蔵堂)
また、また、井戸の横には、1185年に壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門の霊を祀った
御堂の中には、風呂地蔵があるそうです。この御堂は毎月24日に開けられるほか正月1,2,3、さらに8月13日も開けられています。
【解説板全文】
●風呂の井戸
木曽義仲の乱入で京都を追われた平家は再起の地を大宰府に求めたが緒方惟義の反逆にあい住吉、箱崎、香椎、宗像をふしおがみ、芦屋から海路この柳ヶ浦につき「内裏」を定めたのが寿永2年の秋であった。
旅の疲れをいやすための風呂の用水がこの「鏡ヶ池の玉水」で以来この泉を「安徳帝風呂の井戸」といゝ伝えられている。
この周辺の字名は風呂となっているが大正の末期に不老として町名にした。
●風呂の地蔵
一度は西下した平家も空しく引揚げ一ノ谷で敗れ再び西下、壇の浦の藻屑と消えたのが寿永4年であった。
平家一門の霊を祀った風呂禅院西光山大専寺は柳村に在ったが慶長年間に改宗して街道筋に移され、地蔵堂だけは風呂の一角に残されていた。
今改めて小堂を建立し御幼帝の霊を弔う。合掌
昭和46年8月 柳共有組合
(不老通り)
案内板のようにこの周辺の地名は、安徳天皇の風呂にちなみ「風呂」となっていました。しかし、大正末期に「風呂」から「不老」という町名にかえました。
門司駅前正面にある「不老通り」はその名に由来しています。
下の写真の、山に向かって伸びてる1本の道が不老通りです。
不老通りの始まりとなるJR門司駅前には、いわれを書いた石碑がありました。
後ろの建物がJR門司駅です。
(この地に都がおかれた!!)
1183年、九州門司にたどり着いた安徳天皇と平家一門は、ここに御所を作ります。
京都のように柳や梅を植えていたそうです。
この場所は現在、柳の御所神社となっています。
この地を仮の御所「内裏」(だいり)と定めます。9月の13夜には宴も催しています。
なお、「内裏」にちなんでこの周辺の地名は「内裏」でしたが、途中で漢字が代わり「大里」となりました。
【柳の御所神社について書いたブログはココ】
安徳天皇はどんな人物であったか、ここをクリックして御覧下さい。
おじいさんは、母方が平清盛、父方が後白河法皇と言う素晴らしい血筋です。
【安徳天皇について書いたブログはココ】
安徳天皇がなくなったのは、ここ、門司の海岸部で行われた壇ノ浦の戦いです。
門司に来た2年後1185年の事です。
【壇ノ浦の戦いについて書いたブログはココ】
壇ノ浦に面した山口県下関市の赤間神宮には、壇ノ浦で滅んだ平氏の墓があります。
【赤間神宮の平家一門の墓について方ブログはココ】
壇ノ浦で短い生涯を遂げた安徳天皇。しかし生き延びた伝説があります。
その1つは、この柳の御所から山に入った北九州小倉南区です。
【安徳天皇が生き延びた場所について書いたブログはココ】
<<安徳天皇の風呂の井戸への行き方>>
JR「門司」駅徒歩10分高田二丁目(旧競輪場前)バス停下車 大里交番斜め前
今から800年以上も前にここに安徳天皇がいて
風呂に入ったんですねええ
追加!!
天皇の風呂と言えば 安徳天皇の先祖・神武天皇の風呂も天孫降臨の地・宮崎にありました。