上の写真は、漢口事件の翌日4月4日に撮影した漢口日本陸戦隊本部です。
戦前中国大陸にいた日本人が襲撃される事件は
何度か起きていますが
1927年(昭和2年)4月3日には
漢口事件が起き
日本人がむごたらしく殺害されています。
(注釈)
※今回のHPに掲載している内容および写真は、国立国会図書館デジタルの
「南京漢口事件真相:揚子江流域法人遭難実記」【1927年(昭和2年)8月発行】から引用および参考にしています。なお、この著作権は消滅していますhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1191533)
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(漢口事件とは)
漢口事件は、昭和の初めに中国軍の一部と中国群衆の一部が中国・漢口にあった日本人租界地に侵入し、掠奪、破壊活動を行い、日本領事館員や居留民に暴行を加えた事件です。
地名と日付から漢口四三事件とも言います。
(東洋のシカゴ・漢口)
漢口は中国湖北省東部の大都市。1858年に結ばれた天津条約で開港されます。
やがてイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本の租界がおかれ、経済が発展した
ことから「東方のシカゴ」とも呼ばれました。下の地図で赤で囲んだ部分です。
(日本人祖界地でからかわれた日本人水兵)
日本人目撃者及海軍側の報告によれば、4月3日午後3時過ぎ、日本軍の2人の水兵が
日本租界燮昌路の料亭「妻鶴」近くを通行中に、5.6名の中国人小児が背後から石を投げたり馬鹿にしたり、からかうので、その態度に怒ったところ、このやり取りを見ていた25歳くらいの中国人若者が現れます。
さらに周囲から複数の中国人が集まって来て、水兵たちを袋だたきにします。
水兵の1名は負傷出血して、1名は近くの料理店「山吉」に逃げ込みます。しかし、
中国人の野次馬も加わって、「山吉」とその隣の「浪花食堂」は破壊されます。
一説には逃げ込んだのは「浪速食堂」という話もあります。
下の写真は浪速食堂です。
(流言飛語、暴徒化する中国人)
そのうち「日本水兵が支那人を殺した」「車夫がナイフで刺された」といったデマが
広がります。
すると中国人は「日本人許すまじ」と言う感情を抱き暴徒化し、日本租界に殺到し、
日本租界の三分の二は中国人暴民によって埋められます。
暴徒化した中国人群衆は日本人を見れば取り囲んで殴り、また日本人商店を次々と
襲撃します。さらに日本人の家宅にも乱入して、破壊や略奪を繰り返します。
もう無茶苦茶です。
騒ぎを聞いて田中副領事が駆けつけますが、中国人暴徒に囲まれます。田中副領事は「日本領事だ」と叫んだにもかかわらず、暴行されてしまいます。
中国人暴徒による蛮行は次々と繰り広げられ、特に南小路から平和街に出る角にあった理髪店の隣の家では、産後間もない身を病床に横たえていた妻が、暴徒によって足蹴にされ遺骸は放置されます。
また、別の妊娠五ヶ月の女性は二階から引きずり降ろされ、大勢に殴られて血まみれになります。
このような実にむごたらしい出来事が起きるなど、漢口租界内は無政府状態に陥ります。
(海軍陸戦隊上陸)
漢口には約2200人の日本居留民がいて、その生命の安否が気づかわれたため、総領事
および嵯峨の艦長は協議の結果、午後4時、海軍陸戦隊200名を上陸させます。
海軍陸戦隊は、機関銃を地面に向けて数十発発射させ、威嚇することで暴徒と化した
中国人を租界外に追い払います。
しかし陸戦隊によって租界を追われた中国人暴徒は、逃げる途中でも他国の租界にある日本人商店を襲撃したり放火をします。もう無茶無茶!!
下の写真は日本祖界バンドの防備の様子です。
(ほぼ全員を漢口から避難)
日本人居留民は租界の中だけではなく租界付近にもいます。このままの状態だと邦人の生命の危機が及ぶため、漢口にいる日本人居留民2000人以上を集め、日本租界前に停泊していた大福丸、大亨丸、武陵丸、三月丸の四隻に避難させることとし、午後8時までに租界内外にいる邦人のほとんどを収容し上海に避難させます。
2000人以上いた在留邦人は5月9日には444人となりました。
下の写真は上海に着いた時の写真です。
この漢口事件、被害は150戸、被害見積額は92万円です。
暴徒と化した中国人の略奪、蛮行。。。恐ろしいです。
租界は国際条約によって列国が保有していた、いわば外国です。
そこに暴徒化した民衆や軍隊が押しかけてきて暴行や掠奪、略奪をしました。
これは当時の中国が1つの国として完全にまとまっておらず各地で軍閥がいて不安定な状態だったことがわかります。
・・・ということで4月3日は、
漢口事件が起きた日です。