幕末、尊攘派による
初めての組織的な武力討幕運動をおこしたのが
天誅組です。
大阪・堺には、その天誅組が上陸したのを
記念した石碑「天誅組義士上陸遺蹟碑」があります。
(尊皇集団・天誅組)
天誅組は、土佐藩脱藩・吉村寅太郎などの尊皇攘夷派の志士たちが中心となり、幕末に結成されました。
天誅組は、公卿の中山忠光を主将とする約40人(土佐藩脱藩17人)の志士で、総裁が
吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂の3名、御用人は池内蔵太からなります。
(8月16日 堺に上陸)
幕末の1863年8月14日、天誅組は京都方広寺を出発し京都から淀川を下ります。
そして淀川から天保山を船で南下して大阪湾に出ます。
8月16日早朝には堺に上陸します。
天誅組が上陸した場所は、かつて「堺湊新地」と呼ばれた地域の一角です。
ここは、旭茶屋や神明神社、龍神堂(善法寺内)などを訪れる人々で賑わっていました。
(天誅組義士上陸遺蹟碑)
天誅組が上陸した堺湊新地は、現在の、南海本線・堺駅の西にあたります。
そこには「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」があります。
大きな石碑に刻まれた文字。よく見ると「天誅組義士上陸遺蹟碑・文久三年八月」と
読めます。
手前にある碑には「天誅組義士上陸蹟」と書かれています。
近くの草むらにも・・。
(天誅組の変)
堺に上陸した天誅組は、ここから奈良を目指し南東に進みます。
それは河内のメンバーと合流するという目的があったからです。
天誅組は堺港上陸の翌日の8月17日には幕府天領である奈良大和五條の代官所を襲撃し、占拠します。(天誅組の変)。
(五條御政府)
天中組は五條代官所を襲撃して鈴木源内ら役人を殺害、代官所轄の約8万石の領地を
朝廷直轄地とし、「五條御政府」という新しい政治機関をおきます。
この天誅組の蜂起は、江戸幕府に対する尊攘派の初めての組織的な武力による討幕運動で、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与えました。
(わずか1日で逆賊に)
しかし、その翌日、京都でおきた長州藩と長州派公卿らを京都から追放した政変
(八月十八日の政変)により、状況は変化し天誅組は一転して逆賊とされます。
そして、9月27日、幕府軍の追討を受け、吉田虎太郎が討たれたのを最後に天誅組は
壊滅します。
天誅組に関してはこのHPが詳しいです。
<<天誅組上陸の地碑への行き方>>
住所:堺市堺区栄橋町1丁
天誅組が上陸した堺の港。
尊王攘夷の歴史の重要な舞台です。
堺に来たら是非足を運んで下さい。