日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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4月16日、豊臣家滅亡につながった方広寺の鐘が鋳造

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江戸時代に入って10年あまりの1614年4月16日、

京都府京都市東山区にある天台宗の寺・方広寺の鐘が

豊臣秀頼により鋳造されました。

 

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この方広寺は、もともとは豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって大仏建立した寺でしたが、燃えたので息子の秀頼が再建しました。

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(「国家安康」「君臣豊楽」)

方広寺の鐘は、日本三大梵鐘にも数えられていますが、そこに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文言に対して徳川家康大坂冬の陣を起こしたことで知られています。

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(鐘の銘文)

豊臣家滅亡への引き金となった方広寺の鐘は高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、

重さ82.7tもの巨大な鐘です。

この鐘に刻まれた銘文、その全文を見てみます。

 

欽惟 豊国神君 昔年 掌普天之下
前文
外施仁政
征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公

天子万歳 台齢千秋
銘曰
洛陽東麓 舎那道場 聳空瓊殿 横虹畫梁
参差萬瓦 崔嵬長廊 玲瓏八面 焜燿十方
境象兜夜 刹甲支桑 新鐘高掛 商音永煌
響應遠近 律中宮商 十八聲縵 百八聲忙
夜禅畫誦 夕燈晨香 上界聞竺 遠寺知湘
東迎素月 西送斜陽 玉筍掘地 豊山降霜
告怪於漢 救苦於唐 霊異惟夥 功用無量
所庶幾者 国家安康 四海施化 萬歳傳芳
君臣豊楽 子孫殷昌 佛門柱礎 法社金湯
英檀之徳 山高水長

慶長十九年甲寅歳孟夏十六日
大檀那正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公
奉行片桐東市正豊臣且元
冶工名護屋越前少掾菅原三昌
前住東福後住南禪文英叟清韓謹書

 

何のことか よくわかりませんが、この銘文の中にある

「国家安康」と「君臣豊楽」について家康は,次のような言いがかりをつけました。
「国家安康」:「家康の名を2つに切っている」
「君臣豊楽」:「豊臣(「臣豊」の部分)を君主として子孫繁栄を楽しむとしている」
つまりこの釣り鐘の銘には、豊臣家が栄え徳川家が滅びることを願う呪いが込められているというのです。

そして,同じ年に大坂冬の陣を起こします。

それが翌年の大坂夏の陣での豊臣家滅亡へとつながります。

大坂城の秀頼・淀君自害について書いたブログはココ】


(なぜ今もこの鐘が残っているのか??)

 不思議に思うのは、徳川にとって不吉極まりない文字を刻んでいるというこの鐘を

秀頼滅亡後になぜ家康は溶かしたり、壊したりしてこの世から消滅させなかったのでしょうか?

なぜ今まで現存しているのでしょうか?

普通、戦争を起こす原因になったようなそんな不吉なものは壊すでしょ?不思議です。

あと、そのような歴史的に重要な意味がある鐘ですが、普通に置いてありました。

これも不思議ですねえ・・。

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京都府観光連盟公式サイトの方広寺


<<方広寺の鐘への行き方>>

JR京都駅から市バスで7分、博物館三十三間堂前下車、徒歩6分。

京阪電鉄七条駅からは北東に歩いて約8分、

清水五条駅からは南東に歩いて約10分です。

住所:京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2

 

・・・ということで

4月16日は

豊臣家滅亡につながった方広寺の鐘が鋳造された日です

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