2022年(令和4年)4月14日は、
高杉晋作の命日です。156回忌。
晋作を偲ぶ東行忌が行われたので参列してきました。
(東行庵にて開催)
高杉晋作の慰霊祭=東行庵が開催されたのは、山口県下関市にある東行庵(とうぎょうあん)です。
ここは、1884年(明治17年)に高杉晋作の霊位礼拝堂として創建されました。
この「東行」というのは高杉晋作の号です。有名な「西行」にちなんで、あっちが「西」なら、俺は「東」だと、晋作が茶目っ気を見せてつけたものです。
今回、参列者は70名程度。その顔触れが、明治維新の立役者の1人の高杉晋作にふさわしく大物ばかり。安倍元首相(代理)、衆議院議員、参議院議員、下関市長、下関市議などで、その末席におっさんがいました。関係者や地元住民、奇兵隊士の子孫らが参列し、維新の立役者として活躍した晋作の功績をしのびました。
(式は午前10時半開始)
今回は雨天となったため晋作の墓前ではなく、東行庵の講堂に祭壇を設けて法要が行われました。
こちらが祭壇です。
位牌には「東行」の文字が読み取れます。
祭壇の傍らには晋作像がありました。
10時半に始まった式はコロナ禍ということで規模を縮小して行われ、11時15分には終了しました。 コロナでなければ、地元の園児による散華の舞や詩吟の奉納などもあるのですが残念ですね。
有福孝岳兼務住職が「高杉晋作は類いまれな発想力、決断力、行動力を兼ね備えた破格の逸材で、明治維新の先駆けとなり、近代日本の扉をこじ開けた」と偉業をたたえ、読経をしました。
式のあと、雨が降る中、敷地内にある高杉晋作の墓をお参りしました。
晴れていたらここで式が行われるはずでした。
そのあと下関駅近くにある「高杉晋作終焉の地」にも
参拝してきました。
コロナ前はここでも命日にイベントがあっていたらしいですが、今年もありませんでした。
実は2年前の2020年(令和2年)4月13日にも、おっさんは高杉晋作終焉の地にお参りに
行っています。
【高杉晋作の命日に終焉の地に行った事を書いたブログ】
(高杉晋作とは・・)
【写真は2021年(令和2年)高杉晋作の命日に訪れた終焉の地に掲げられたものです】
藩校明倫館、松下村塾に学び1863年に外国船から攻撃をうけた時に奇兵隊を結成し、
外国勢と戦います。
翌1864年に四国連合艦隊との講和において正使として活躍します。
また第1次長州征討の後、長州藩を討幕に転換します。
1866年6月におきた第2次長州征討では指揮をとり、各地で幕府軍を打ち破ります。
また、高杉晋作は、薩長同盟締結の立役者・坂本龍馬とも交流があり、龍馬に護身用としてピストルを渡しています。
このピストルは、薩長同盟を成立させた坂本龍馬が京都の寺田屋で襲撃されたときに
使用しています。
高杉晋作は、1867年4月14日、結核がもとで、山口県下関市で死亡します。
このとき27歳、この年に行われた大政奉還を見ることなく亡くなりました。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の歌でも知られています。
(「近世名士写真」国立国会図書館ウェブサイトより)
山口県下関市には、幕末の志士・高杉晋作にちなんだ史跡があります。
そこで、おっさんが実際に足を運んだ下関市の晋作史跡を紹介します。
1863年5月10日、攘夷政策をとる長州藩は関門海峡で外国船に対し砲撃を行いますが、
逆に報復を受けます。この時、晋作は下関の防衛を任せられます。
そして6月に身分にこだわらない兵隊組織を結成します。奇兵隊です。
奇兵隊の誕生は「武力を持つのは武士のみ」と言う江戸時代には、画期的な出来事でした。
【奇兵隊について書いたブログはここ】
この奇兵隊設立には、下関の豪商・白石正一郎の財政支援が大きな力となりました。
当初、白石邸には奇兵隊の本陣が置かれていました。
<<奇兵隊結成の地・白石正一郎邸への行き方>>
JR下関駅徒歩5分 中国電力下関営業所 横
住所:山口県下関市竹崎町3丁目8-13 中国電力下関営業所
(馬関戦争の舞台・みもすそ川公園)
1864年8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を
砲撃し、砲台が占拠されます。(馬関戦争)
この時、24歳の晋作は和議交渉の窓口を任され、諸外国と交渉します。
この講和会議で連合国は「彦島の租借」を要求しますが、晋作は拒否し撤回させます。
また高杉晋作は、攘夷は幕府の命令で長州藩はそれに従っただけだから賠償責任先は、幕府にあると主張し、賠償をしていません。
【馬関戦争について書いたブログはここ】
【みもすそ川公園HP】
<<みもすそ川への行き方>>
(決起した功山寺)
1864年12月15日には、晋作は、下関市長府にある功山寺で、尊王討幕の決起を行います。
【回天義挙した功山寺について書いたブログはここです】
<<功山寺への行き方>>
(第二次長州征伐そして死)
晋作は、1866年の第二次長州征伐の時には海軍総督として「丙寅丸」に乗り指揮を執り幕府軍を破り、さらに小倉藩を攻め敗走させます。
こうして、晋作は長州藩で討幕の中心人物として活躍していきます。
また晋作は、下関の櫻山神社に奇兵隊など命を落とした人のための招魂場を作ります。
【晋作が発案した招魂場がある櫻山神社について書いたブログはココ】
しかし、晋作は結核にかかり下関の大庄屋の林算九郎と言う人の邸宅の離れに住み、
生活していました。高杉晋作が住んでいた屋敷は「緑堂」と呼ばれていました。
そして1867年4月14日、下関市桜山で肺結核の療養中に死去します。満27歳でした。
【晋作が眠る東行庵について書いたブログはココ】
(高杉晋作終焉の地)
高杉晋作の終焉の地は、山口県下関市のJR下関駅西口から10分ほど歩いた住宅地の一角にあります。
【高杉晋作終焉の地について書いたブログはここ:命日に行ってきました】
<<高杉晋作終焉の地への行き方>>
JR下関駅西口徒歩10分以内 妙蓮寺と言うお寺の前です
住所:山口県 下関市 山口県新地町1
(おまけ:京都の高杉晋作の墓)
(参考)京都の霊山護国神社には、久坂玄瑞と高杉晋作の墓が同じ場所にあります。
【霊山護国神社について書いたブログはここです】
【高杉晋作などの幕末を知りたいならこの本がいいです】
…という事で
2022年(令和4年)4月14日(木)に
高杉晋作の命日に開かれた東行忌に
参列してきました。
今回は雨だったため室内でした。
晴れたら晋作の墓の前で
行われるという事なので
来年も参加したいと思います。