福岡市中央区の住宅街の中にある谷公園。
ここはかつて陸軍の墓地で、現在は合葬墓6基、個人墓などがあります。
元々は個人の墓が並んでいたようですが、1935年(昭和10年)に当時の歩兵第24連隊長が墓の改修を命じ、現在の形となりました。
「碑文」福岡陸軍墓地の由来 全文
明治19年 陸軍歩兵第24聯隊が福岡城(舞鶴城)に設置された。
陸軍省の所管であったこの丘には、日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられていた。昭和10年、上村聯隊長が墓の改修統合を命じ、軍民一体となった協力で、那珂川町片縄から巨大な御影石が切り出された。
そして「日清」「日露」「青島・西比利亜」「殉職将兵」の墓が、昭和15年『皇紀2600年』に「満州・上海」「支那事変」の2基が建立、計6基となった。戦後昭和57年5月には「大東亜戦争碑」が建立、他に「ガダルカナル島」「ビルマ・雲南」「ドイツ軍人」等の墓碑がある。
(愛國婦人會)
合葬碑に上る階段の右にある灯篭。「愛國婦人會福岡縣支部」 の文字が刻まれています。
(ずらりと並んだお墓・慰霊碑)
公園の高台には、お墓や慰霊碑がずらりと並んでいます。
【関連年表】
1914年(大正3年)10月31日 第一次大戦でのドイツ領青島攻撃
1918年(大正7年)8月2日 シベリア出兵
1937年(昭和12年)7月7日 盧溝橋事件=支那事変勃発。
1937年(昭和12年)8月13日 第二次上海事変
1941年(昭和16年)12月8日 真珠湾奇襲・太平洋戦争開始
左から、日清戦役戦病没者之墓 昭和10年建立
日露戦役戦病没者之墓 昭和10年建立
青島及西比利亜戦役戦病没者之墓 昭和10年建立
青島は中国のチンタオ、西比利亜はシベリア
支那事変戦病没者之墓 昭和15年建立
殉職将兵合葬之墓 昭和8年建立
大東亜戦争戦病没者之碑
一番右側にある碑が戦後にできた大東亜戦争戦没者の「慰霊碑」です。
これだけが唯一墓ではなく「慰霊碑」です。
裏には文字が刻まれています
「碑文」
昭和20年8月15日「万世のために太平を開かん」との詔により 万魁の涙をのみ終戦を迎えた その後36年営々として祖国再建に努力いまや世界の大国となった 惟うに今次の大戦は自存自衛のため日本国の存亡をかけ 虐げられた民族の解放と万邦共栄を願っての聖なる戦いであった 遂には敗戦の悲境に沈淪せしも次々よ亜細亜の民は独立と自由の栄光をかち得たことは 世界史上嘗てなき歴史の荘厳なる事実である。
この間 わが郷土部隊は各地の激戦に参加し言語に絶する凄惨苛烈なる闘いを展開 軍の華とうたわれた かくして本県出身の英霊 8万8千676柱に及ぶ しかるに碑の未だ無きを嘆く 同じ戦場に生死をともにし万死に生を得た戦友並びに遺族とともに先覚有志のこころざしを承け 多くの人々の赤心浄財を募り 本日「大東亜戦争戦歿者之碑」建立となる
改めて英霊の崇高なる精神と偉大なる業績に対し限りなき敬慕と感謝のおもいをとこしえに伝えまつる
み霊よ とわに安らかなれ
昭和57年5月30日 福岡県大東亜戦争戦歿者戦歿者慰霊顕彰会 建立
どうも表面をよく見ると文字に修正を加えたと思われる個所がありました。
(ドイツ軍捕虜にも配慮)
陸軍墓地の奥の方に行くと、ぽつんと離れた場所にひっそりと石柱で囲まれた箇所が
あります。
ここにはドイツ人の名が刻まれた墓がありました。
この方々は、第一次世界大戦中に当時ドイツ領だった中国の青島(チンタオ)で、戦いがあり(日独戦争)そのとき日本軍の捕虜となったドイツ兵だそうです。
1914年(大正3年)、日本軍が青島を陥落させ、大量のドイツ人捕虜が日本に移送されました。
ドイツ人捕虜の扱いは、国際条約を順守したもので、労働に対しては日本の将校・兵卒と同様の給与が支給され、本国との手紙のやり取や飲酒も許可されていました。
そして地域との交流も盛んでお菓子作りやハムやソーセージなどの製造、ドイツパン
などの技術や文化が伝わりました。
太平洋戦争中、援蒋ルート遮断のため福岡県久留米市で編成された龍兵団(たつへいだん)=陸軍第56師団は、ビルマから中国を攻めます。
しかし1944年(昭和19年)6月に中国・雲南省、拉孟(らもう)で戦うも援軍は送られず、100日以上の持久戦を強いられ、中国軍の猛攻を受けおよそ1300名が命を落とします。
明治維新志士之墓
(ガダルカナル島戦士の碑)
ガダルカナル島での戦死・餓死者は約2万5千人に上りますが、このうち、福岡歩兵第124連隊の将兵3,179名が犠牲になっています。
1973年(昭和49年)3月に、亡くなった方の死を悼み、ガ島戦士之碑がガ島会によって建立されました。
現在、谷公園では郷友連福岡支部が10月第3土曜日に
慰霊祭を実施しています。
<<谷公園:旧陸軍墓地への行き方>>
住所:福岡県福岡市中央区谷2丁目11
谷公園では、毎年10月の第3土曜日の慰霊祭
タイミングが合えばいつか参加したいと思います。