国立印刷局(https://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/gallery/dajoukan.html)を加工して作成
1868年(慶應4年)4月19日、
明治政府が太政官布告により
「通用向こう13か年」の官札が発行を布告し
5月15日から発行します。
この官札は、日本で初めて国が発行した紙幣に
なります。
太政官札は、明治政府によって慶応4年5月(1868年)から明治2年5月(1869年)まで発行された政府紙幣で不換紙幣です。 金札とも呼ばれました。
これは、日本で最初の国家紙幣と言われ十両、五両、一両、一分、一朱の5種からなります。
当時は、通貨単位は、まだ「円」ではなく江戸時代と同じく両、分、朱のままでした。
(由利公正の発案)
お金は、江戸時代までは、金、銀などの硬貨が主流で紙幣はそれぞれの大名が所有する領国で発行し流通していました。つまり各藩内でバラバラでした。
明治維新を迎え、新政府が発足しますが、新政府は、維新の戦いで多額の金をつかったため、新しい国づくりを進めるには財政難に苦しくなりました。
そのため不換紙幣の太政官札を発行して明治政府の諸経費をまかなおうという策でした。
この官札の発行は明治政府で財政面を担当する参与の由利公正の発案でした。
由利が福井藩士であったことから、この紙幣の紙は、福井県越前市で漉かれた和紙を
使用しています。
(出典)
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
(太政官札は銅板印刷)
太政官札の印刷は、腐食凹版(ふしょくおうはん、エッチング)による銅版印刷で
当時はまだ技術的に乏しく太政官札の原版も一つ一つ手彫りでした!!
そのため、それぞれ微細なズレや違いがありました。
【太政官札の原板】
国立印刷局(https://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/gallery/dajoukan.html)を加工して作成
(各藩で太政官札ニセ札登場)
いまに比べるとお札の技術がまだまだだった太政官札。この太政官札を藩ぐるみで偽造することが各地でおきます。
1870年(明治3年)には、福岡藩が太政官札を贋造し、全国各地で大規模に使用します。
贋札作りは同じように戊辰戦争で戦費を負担し財政が悪化した諸藩でも行われています。まさに公による偽造作り!!
しかしすぐに新政府にばれて処罰を受けます。
特に、福岡藩は、大参事などの首脳が拘引され、藩知事・黒田長知は罷免、大参事・
立花増美ら5人が斬罪に処せられました。
(太政官札短い命)
太政官札の発行総額は4800万両余で、1879年(明治12)11月までにおもに新紙幣と
交換され回収されました。
当初一三年間通用の予定でしたが、一〇両・五両の両札は「明治八年五月末限り」、一両札以下は「同一一年六月末限り」で通用禁止となりました。
(その後・・・)
1871年(明治4年)6月、新貨条例が公布され新貨幣の単位は円になります。それまで流通していた貨幣1両を新貨幣(金貨)1円とします。
そして7月14日、廃藩置県が布告され藩札が一気に政府発行の紙幣に切り替わる機会が来ます。藩が消滅すると藩札はただの紙くずになります。廃藩置県により、藩札のほか府札や県札も回収され、政府の紙幣と引き換えられていきます。
新貨条例が出てから11年後の1882年(明治15年)には日本銀行が設立し、さらにその
3年後には日本銀行券の発行が始まります。
(我が国最初の日本銀行券は1885年)
1885年(明治 18 年)5月9日に、我が国で最初となる日本銀行券が発行されました。 「旧十円券」、通称「大黒札」です。
この銀行券は銀貨兌換券で、券表面に は「此券引かへに銀貨拾圓相渡可申候也」と
記されています。
【国立印刷局ホームページhttps://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/gallery/daikoku.htmlを加工して使用】
(我が国初の流通貨幣:和同開珎)
ちなみに日本で最初の流通通貨は和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)で708年旧暦の8月10日に鋳造・発行されました。これが今までおよそ1300年以上続く日本の貨幣の始まりです。
【和同開珎について書いたブログはココをクリック】
・・・・というわけで
4月19日は日本初の紙幣・太政官札発行を布告した日です
国立印刷局(https://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/gallery/dajoukan.html)を加工して作成
※お札に関してここは面白いので紹介しておきます↓