【東京都調布市にある近藤勇生家の看板に使用されている近藤勇の写真】
この近藤勇が捕まり斬首されたのが
1868年(慶応4年)4月25日です。
(幕末に生まれ剣の腕で新撰組局長に)
近藤勇は、幕末の1834年、武蔵国多摩に百姓の子として生まれます。
近藤家の養子になり武芸の能力にすぐれていたために15歳の時に
天然理心流試衛館に入門し腕を磨き、翌年には目録を受けとります。
1863年に江戸幕府が将軍・徳川家茂が上洛するさいの警護のために「浪士組」の募集した際に、近藤勇は試衛館の土方歳三など8名を連れ参加し上京します。
その後紆余曲折を得て、京都守護職で会津藩主・松平容保の保護下に置かれやがて「新撰組」が誕生します。
新撰組では近藤勇が新撰組の局長、土方歳三は副長になり京の治安維持と、討幕運派の取り締まりを行います。
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(近藤勇が一時身を寄せた 多宝山成願寺)
新選組は池田屋事件等での活躍し、幕末の京都を警護する部隊として有名になっていきます。
しかし世の中の動きが討幕へ進む中、鳥羽伏見の戦いでやぶれ、近藤勇は江戸にもどります。新選組は甲陽鎮撫隊と名をかえ、近藤は大久保大和と名乗ります。
東京中野区には、幕末に一時、近藤勇とその家族が身を寄せていた。多宝山成願寺があります。
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(流山で捕まり板橋で死刑。首は京都へ)
明治になる年の1868年4月3日、近藤は、流山にいるところを新政府軍に知られ捕らえられます。
その後、当時、板橋宿に置かれていた新政府軍の本陣に移送されます。
そこで尋問を受けたあと4月25日に板橋刑場で処刑されました。
その首は京都に送られ三条河原で3日間さらし首になりました。享年35。
板橋刑務所で処刑された後、首の無い近藤の胴が埋められた場所が現在の板橋駅東口前付近です。
現在は、ここに近藤勇の墓が立てられ函館で戦死した副長・土方歳三など百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています。
敷地の奥、正面に建つひときわ高い慰霊碑。
この正面には「近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれています。
しかし、よく見ると・・・
近藤勇の名「昌宜(まさよし)」の字が何故か逆になっています。
正しくは「昌冝」です。
間違えたまま、後世に残ってしまいましたね・・。
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(近藤勇を受け継ぐ撥雲館と近藤神社)
時は明治にはいった1876年(明治9年)、近藤勇の一人娘・瓊(たま)と結婚し、天然理心流5代目を継いだ養子の近藤勇五郎が、東京都調布市にあった近藤勇の生家の向かい側に、道場「撥雲館(はつうんかん)」を建てました。
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また近藤勇の生家の隣には、昭和戦前に建てられた近藤神社があります。
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・・・・ということで4月25日は
毎年近藤勇の命日の4月25日の直前の
日曜日の昼前には供養祭が行なわれています。