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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」感想 ネタバレ第18話「壇ノ浦で舞った男」

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。

最近は日曜日にBSで見て、ストーリーを書いてもう一度流れを把握し、土曜日の昼からの再放送を見る という流れが定着しています。

ストーリーを確認した上で再度見ると「ああそうだったのか」と新たな発見が

あります。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第18話「壇ノ浦で舞った男」が2022年(令和4年)58日に放送され世帯平均視聴率が12・7%でした。前回より0,2ポイントアップです。

今回は、源平合戦最終章の壇ノ浦の戦いが描かれています。

 

それでは第18話「壇ノ浦で舞った男」のあらすじを見て見ましょう。

 

(鎌倉殿の13人第18話「「壇ノ浦で舞った男」あらすじ+解説)

(平家軍を追撃!)

1185年2月、平家軍は一ノ谷で敗れ四国の屋島(現在の香川県高松市)まで逃げます。

追撃を狙う源頼朝は平家軍を挟み撃ちにするため、義経を四国、範頼を九州に送り、

平家の逃げ道をふさごうとします。

この大河の主人公の義時は、範頼軍と行動を共にしますが、範頼は九州に渡る船を

集める事ができず周防に足止めされます。さらに貴重な食糧である米を積んだ船も平家に奪われてしまい食料不足に悩まされます。

しかし三浦義村が平家に敵対する豊後(現在の大分県)の緒方一族から船を借りることで範頼軍は九州に渡り、筑前を攻めます。

 

義経、暴風の海を出撃!)

一方の義経軍も、大暴風雨で摂津から動けない状態でした。

梶原景時が「舟というものは、馬と違って急に向きを変えることができぬ。そこで例えば、艪を舟の舳先にも付けるというのは」と提案しますが、義経が「馬鹿じゃないか!逃げるための道具など、なぜ考える」と一蹴します。いわゆる「逆櫓論争」です。

さらに、義経はこの暴風雨こそ好機だといい、「この嵐の中での出陣は無謀だ」と言う梶原景時畠山重忠の反対を押し切り、自分の手勢だけで暴風雨による悪天候の中を船で阿波に向かいます。

その様子を見送るときに梶原景時畠山重忠に「九郎義経が神に選ばれた男なら、必ず成し遂げる。」と伝えます。

義経が率いる5艘の船は、暴風雨の中、阿波に到着。まさかやってくるはずはないと思った屋島の平家軍に奇襲をかけ平家軍を駆逐します。

平家物語」では、この「屋島の戦い」での那須与一の逸話が有名です。瀬戸内海に浮かぶ平家軍の小舟に乗った美女が扇の的を掲げて源氏方に「射てみて」と誘います。

すると那須与一が見事、この扇を射貫きます。それを見た平家の男が「見事なり」と

踊っていたら、次にはこの踊っていた男も射られてしまうという話です。

有名な話ですが、今回の大河ドラマでは描かれず残念です。

 

(頼朝と義経に亀裂が・・・)

戦況は逐一、鎌倉にいる源頼朝に伝えられます。連戦連勝をとげる義経ですが、頼朝は、戦で名を挙げていく義経がやがて「次の鎌倉殿は私だ」と言ってくるのではないかと疑念を抱き始めます。まあ、頼朝はこういうところがあるんですよね。

そして頼朝は、義経を総大将から外し、梶原景時を総大将にする文を現地に送ります。

 

義経と景時)

源平合戦を前に、義経軍は長門の壇ノ浦で軍議を行っていました。この席で、景時は、「鎌倉殿から義経を戦の場に出すなとの指令が届いた」と皆に伝えます。

また、頼朝により、総大将は景時が任命されましたが、義経は自分が指揮を執ると主張し義経と景時は激しく対立します。

このやりとりを見て畠山は「平家はこの戦、死に物狂いで攻めてきます。九郎殿を欠くわけにはいきませぬ。」と言い、比企能員、三浦義澄もそれに賛同します。

この義経と景時のいさかいは、梶原景時義経と打ち合わせをして仕組んだ演技でした。いさかいを受け、御家人たちの後押しによって大将が義経に決まるというストーリーでした。

大将に決まったあと義経は、「なぜ、自分ではなく梶原景時を大将にしたのか兄上の胸の内がわからない。」とぼやき景時は「勝てば良いのです」と応えます。

 

(掟破りの戦法)

義経は海を眺めていたとき、 掟破りの戦法を考えます。それは海上での戦で平氏の船の漕ぎ手を狙い弓矢で射てしまうというのです。そうなると漕ぎ手がいなくなり船は自由に動けず立ち往生し混乱します。そこを一気に攻めるというのです。

これは、非戦闘員の漕ぎ手を殺すという当時の武士の戦い方の邪道中の邪道でした。

いわゆる卑怯な手です。

 

(決戦!壇ノ浦)

同年3月24日、朝。本州山口県下関市と九州福岡県北九州市門司区の間にある関門海峡の壇ノ浦で源平合戦が始まりました。壇ノ浦の戦いです。

平氏軍は500、一方義経軍は800。

午前中は平家軍が優勢で義経の船が平家軍の船に囲まれてしまいました。

義時は関門海峡を見下ろす高台にいました。俯瞰なので源平の戦い具合が把握できます。

やがて平家軍に囲まれた義経は、こう言います。

「敵は十分、引き付けた。船の漕ぎ手を射殺すのだ~。」

舟のこぎ手を狙うのは全くの邪道であり卑怯な手段なので誰も義経に従おうとはしません。

畠山は「船の漕ぎ手は兵ではござらん。殺してはなりませぬ。末代までの笑い者になりまする」と義経に言います。

誰も義経の言うことを聞かないので、義経は自ら矢を放って、相手の漕ぎ手を倒し、

見本を見せます。

そして「放て!放たねば命はない」と叫び味方に弓を向けて脅します。義経軍の侍たちは、仕方なく平家のこぎ手を弓矢で狙います。

この義経の戦法で平家の舟は漕ぎ手が次々と戦死し、舟が海上にさまよいます。

勢いづいた義経は敵の船に乗り込み、相手を斬っていきます。そして帝と神器が乗っている船を聞きだします。

 

安徳帝の最後)

平家を率いる平宗盛は、自らの負けを認識し、知盛・経盛・教盛ら一門、さらに三種の神器ともども一緒に海に飛び込むことにしました。

そして8歳の安徳天皇が女性に抱かれ船上に姿を現します。やがて・・・

義経が「やめろ!」と叫ぶ中、安徳天皇も抱きかかえられたまま海中へと飛び込み、

沈んでいきます。ここ水中カメラを使った映像が綺麗です。

帝の入水に、源氏の侍たちも手を合わせます。

このシーンは「平家物語」では、安徳天皇のおばあさんで清盛の妻の二位尼が「波の下にも都がございます」と話し安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦に身を投げるのですが、

今回のドラマではそのセリフはありませんでした。

 

(戦い済んで)

勝利した後、義経は義時と言葉をかわします。

義経「策が当たったなあ。これは戦だ。多少の犠牲はやむを得ない」

義時「多少でしょうか?」

義経「勝たねば意味がない。討ち死にした命が無題になる。お前の兄も戦で死んだらしいな。無駄にならずにすんだぞ!」

義時「兄は平家に苦しめられる民を思っていました。今回の勝利を兄は喜んでくれているか?」

そして勝った側の義経も「この先、誰と戦えばいいのか。私は戦の場でしか役に立たない」ともらします。ここは深いですねええ。

 

(大願成就)

鎌倉にいる頼朝は、壇ノ浦での平家滅亡のしらせを受けます。

宿敵の平家が滅亡したものの安徳天皇三種の神器の宝剣を失ったため、大成功で大喜びというわけにはいきません。

しかし夜、政子のもとを訪れた頼朝は、「九郎がやってくれた。平家がほろんだ!」と大いに喜び涙を流しました。

 

(兄弟の絆が・・)

壇ノ浦の戦いを終え梶原景時は、鎌倉に戻り頼朝に戦況を報告しました。

そのとき「九郎殿は神がかって強いが、人の情けをないがしろにする。勝利のためには手を選ばない」と伝えます。余計な事を言いますねえ。

さらに「鎌倉殿を差し置いて、平家の後は九郎義経の世だと呼ぶものもいます。」とも伝えます。(もー-余計なことを吹き込むものですねええ・・)

その話し聞いて頼朝は、不機嫌になってこう言います。

「すぐに九郎を呼び戻せ。」

しかし、義経は京で検非違使に任命されているため、立場上、勝手に京を離れることができません。

頼朝は義時に義経を叱責する文を送り、義時は、その文を義経に見せます。

頼朝からの文を読んだ義経は「戦に勝ったのになぜ怒られるのだ。兄上の喜ぶ顔が見たいだけなのに」と嘆きます。

義時は「一日も早く、ご自分の口で弁明なさるべきでございます。」と進言します。

なんとか兄と和解をしたい義経ですが、京で検非違使の職があるので自由に鎌倉へは戻れません。そこで後白河法皇に鎌倉行きの許可をもらおうと直訴します。

 

壇ノ浦の戦いで敗れた平宗盛は海中から引き上げられ捕虜となっていました。

そのため丹後局が、宗盛を鎌倉に連れて行くのは検非違使の役目なので、それを義経に命じるよう、後白河法皇に提案します。

そして「宗盛の首は京で斬るので、必ず宗盛を連れて京にお戻りくださいませ」と付け加えます。

こうして法皇の許しをうけ、義経は宗盛を連れて鎌倉に帰ることになりました。

 

(暗雲)

義経が鎌倉に戻ることが決まりましたが、鎌倉では、頼朝と義経の関係に暗雲が立ちこめていました。

鎌倉の御所で梶原景時は「九郎殿を鎌倉に入れてはなりませぬ。」と頼朝に告げ、頼朝も「決めた。九郎とは会わぬ。会うのは宗盛のみとする。九郎を決して御所に入れてはならぬ」と言い席をたちます。

義経よりも一足先に鎌倉に戻っていた義時は、頼朝兄弟の仲を修復しようとしますが

頼朝は義時の言葉に耳をかしません。

どうしていいか途方に暮れる義時が「九郎殿は鎌倉殿に会って話がしたいだけなのです。」と告げると景時は「あのお方は天に選ばれたお方。鎌倉殿も同じだ。お二人とも己の信じた道を行くには手を選ばぬ。そのようなお2人が並び立つはずがない。」と

冷たく言い放ちます。

 

(兄との決別)

義経一行は鎌倉の西にある腰越へ到着します。

しかし、ここで時政が「九郎殿は鎌倉殿より“待て”といわれている」と伝え、ここから先には通す事ができず、連行してきた平宗盛のみ鎌倉に連れて行くといいます。

その状況を知った平宗盛義経に、鎌倉殿へ文で思いを伝えるよう助言し、さらに字が苦手な義経のために代筆をします。敵なのになん優しいこと!

 

5月16日。宗盛は鎌倉に入り頼朝とは御簾越しに会います。これも憎い演出ですねえ、戦いに敗れた平氏の対象に対しこの頼朝の態度!!

その後、頼朝は、義経の手紙が代筆だと見破り「どうしてそのような小細工をする?!宗盛を連れて、とっとと京へ帰れと伝えよ。」と怒ります。

そして義時の仲裁も無になり、義経は頼朝との再会もかなわず無念の思いのまま宗盛を連れて京へ帰ることになりました。

「その前に…」と、義経は宗盛の息子と会わせます。戦では非情さを見せた義経の優しい一面です。

「今夜は親子でゆっくりと語るがよい」と語り平家親子の再会の場を与えます。

ここもうまいですね。

源氏は兄弟間の仲が良くない状態。それに対し平氏は親子の愛情・・・・源平で親族の愛情の対比です。

 

(義経の決意)

義経は「この先、法皇様第一にお仕えする。京の都で源氏の名に恥じぬよう生きる。私は検非違使の尉(じょう)、源九郎判官義経(げんくろうほうがんよしつね)だ。」と義時に告げます。

義経は、兄頼朝と別れ、源氏の誇りを持ち京で生活することを決めたのでした。

 

そして、今回のラストは、兄から信じてもらえぬまま京都に戻る義経のもとに地元民が集まるシーンです。この地元民は義経が奥州から鎌倉に入る時に芋などの食料を調達したり道案内をしてくれた人々で、義経はその恩を忘れずにその時のお礼をします。

しかもラストでは表情だけでナレーションも音楽もない無音にして印象を深めるという素晴らしい演出です。

 

(つづく)

うーん、なんか物事が悪い方向に進んでいますねえ。それにしても頼朝の人を疑う癖、信用できない性格、困りますねええ・・。

源平合戦最終章・壇ノ浦関連施設

今回の壇ノ浦の戦いに関する、おっさんが足を訪れた関係史跡です。

壇ノ浦でなくなった安徳天皇

実は生きていたという安徳天皇生き延び伝説の地


(壇ノ浦放送を前に安徳天皇を偲ぶお祭りと

安徳天皇が沈んだ壇ノ浦に行ってきました)

2022年(令和4年)5月3日(火・祝)壇ノ浦に近い山口県下関市にある安徳天皇を祀る

赤間神宮で、安徳天皇を偲ぶ先帝祭・本殿祭があったので参列し、さらに平家一門の墓、安徳天皇陵、壇ノ浦などにも足を延ばしてきました。

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 【鎌倉殿の13人公式HPはココ!!】

【鎌倉殿の13人に関する史跡を色々回って来ました。

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