【彰義隊の墓のすぐ近くの案内板に書かれていた戦いの図】
年号が「慶應」から「明治」に代わる
1868年旧暦5月15日、
江戸の町で新政府軍と幕府軍との戦いが起き、
幕府軍の彰義隊がわずか1日で壊滅します。
(彰義隊結成)
1868年(慶応4年)2月11日、鳥羽・伏見の戦の後、徳川慶喜は江戸へ帰り,翌12日、
上野寛永寺に謹慎して明治政府に対し恭順の意を示します。
しかし慶喜の側近の旧幕臣などを中心とする約800人は、官軍に対して徹底抗戦を唱えます。
そして2月23日、将軍徳川慶喜の身辺警護などを目的として浅草本願寺で結成式が
行われ、頭取に慶喜側近である渋沢成一郎(喜作),副頭取に天野八郎で彰義隊が誕生します。
渋沢喜作は、2021年(令和3年)の大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公となった実業家・渋沢栄一のいとこです。
彰義隊は、江戸幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行っていました。
(彰義隊わずか1日で壊滅)
4月11日には江戸城が無血開城され慶喜が水戸に去りますが、彰義隊は輪王寺宮能久(よしひさ)親王を擁して新政府に対し抗戦するかまえをみせ野の寛永寺に立てこもります。
やがて内部対立から渋沢が脱隊し、その後、彰義隊の実権は天野が握ります。
しかし、新政府側は、1868年5月1日に彰義隊に対し江戸市中取締の任を解くことを
そして5月15日に、長州藩の大村益次郎が指揮する政府軍が上野寛永寺周辺にこもる
彰義隊を包囲します。
この戦いは雨の中の戦いとなり、新政府軍の圧倒的な火力により、彰義隊は、わずか1日で壊滅します。
ちなみにこの戦争は、戊辰戦争で、唯一、江戸市中で起きた大規模戦闘で、さらに
彰義隊が滅んだこの年の9月8日に元号が「慶応」から「明治」に変わります。
(上野にある彰義隊の墓・・賊軍への仕打ち)
上野の戦いでの彰義隊は100名以上の戦死者を出したと言われ、遺体は上野山内に放置されましたが三ノ輪円通寺の住職仏磨らによって茶毘に付されました。
彰義隊は、天皇の政府である明治政府に逆らった朝敵=逆賊とみなされ、彼らの墓を
建立することが許されたのは、1874年(明治7年)でした。
現在、JR上野駅の階段を上り右側に向かうと西郷隆盛像がありますが、そのすぐ近くにある「戦死之墓」と刻まれているこの墓、これが彰義隊の墓です。
戦いから6年たってようやく建てられた彰義隊の墓。
しかし、その墓碑銘には、「彰義隊」の名は記されていません。
彰義隊は明治政府にとっては賊軍であったため、その墓には「彰義隊」という文字は
なく「戦死之墓」と刻まれています。
ちなみにこの文字は有名な「幕末の三舟」の一人である「山岡鉄舟」の筆です。
(後日ようやく「彰義隊」の文字が・・)
のちに土台部分に彰義隊と刻まれた石が置かれました。
ここだけ石碑の色が新しいので、後日付け加えたことがすぐにわかります。
(明治期の彰義隊の墓)
明治期に撮影された彰義隊の墓の写真がありました。
今と違い、柵に囲まれてなくて自由に入れたようです。
【1911年(明治44年)発行「東京風景」に掲載された 上野の彰義隊の墓の写真
国立国会図書館ウエッブサイトより】
【2021年(令和3年)夏におっさんが撮影した 上野彰義隊の墓の写真】
2つを比較してみます。
(彰義隊の生き残りは函館五稜郭に)
上野の戦いでで生き残った一部は榎本武揚のひきいる旧幕府の軍艦で逃亡し箱館・五稜郭の戦いに参加します。
五稜郭の戦いは、これまた面白いのでこの一連を御覧下さい。
<<彰義隊の墓への行き方>>
上野駅から徒歩3分
住所:東京都台東区上野公園
・・ということで5月15日は
上野の彰義隊が壊滅した日です。