1281年旧暦5月21日、二度目の蒙古襲来、弘安の役が始まります。
(弘安の役、防塁で元軍の侵入を阻む)
鎌倉時代の1281年、元のフビライは蒙古・高麗など4万の東路軍と10万からなる旧南宋の江南軍のあわせて14万の大軍で日本に押し寄せます。弘安の役です。
東路軍は対馬・壱岐を攻めココで殺戮を繰り返し、江南軍と合して博多湾に侵入します。
このとき鎌倉幕府は博多湾に石を積んでつくった防塁を作らせ、これが蒙古軍の侵入を食い止めました。
この防塁、石のブロックですね。
(元軍全滅)
上陸が出来なかった元軍が船に戻りますが、やがて暴風雨が起きて
元の船の多くが大破し、生き残った元軍は戦争をあきらめ撤退します。
福岡市の櫛田神社には、元軍が撤退した時に遺棄したと伝わる蒙古軍の碇石が残されています。下の写真は櫛田神社の御神木ですが、その両側にその石があります。
横から見るとこんな感じです。
(今も博多湾に残る防塁)
博多湾に作られた防塁は、1274年に蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府が、蒙古再襲来に備え2年後の1276年に博多湾の海岸線の数か所に築いたもので、今も数か所で防塁の一部が残っています。
(生の松原の元寇防塁)
今も残っている元寇防塁。
その一つが、博多湾に面し海水浴地としても有名な「生の松原(いきのまつばら)」の1画です。住所で言うと福岡県福岡市西区1丁目から4丁目まです。
石を積んだ長い壁ですね。石垣のようにも感じました。
生の松原にある元寇防塁は約2.5kmの間に幅1~1.5m、高さ1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強しています。
海に向かい、長い石の壁になっているのがわかります。
この防塁で海からの上陸を迎え撃ち、上陸を阻みます。
裏側に回り見るとこんな感じです。
九州博多湾に上陸しようとした蒙古軍を迎え撃つ日本侍は、当時このような目線であったかもしれません。
当時の防塁の利用状況を示した図がありました。
こんな風に戦っていたんでしょうねえ。。。
史料によればこの付近の防塁構築は、姪浜が肥前国、生の松原が肥後国とあり、使っている石材が違います。
この石材の違いは両国の分担地区を示す可能性があります。
(蒙古襲来絵詞)
元寇を取り上げるときに必ずと言っていいほど日本史の教科書に載っている蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)。その舞台がここ生の松原の元寇防塁です。
【福岡市経済観光文化局文化財活用部文化財活用課HP】観光文化局 文化財活用部 文化財活用課
【参考】
<<生の松原元寇防塁への行き方>>
生の松原の最寄り駅は下山門駅になります。
住所:福岡県福岡市西区生の松原1丁目22
700年前、命がけで外国から日本を守った武士。
その時に活躍した元寇防塁が今も残っています。