日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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5月24日 義烈空挺隊出撃

 

1945(昭和20)年5月24日、

日本陸軍沖縄戦で、

「義烈空挺隊」による「義号作戦」を行います。

 

(義号作戦とは)

義号作戦とは、すでに米軍に占領された沖縄の飛行場に、空挺部隊を乗せた爆撃機

強行着陸させて飛行場や飛行機の破壊活動を行い、さらに現地にてゲリラ活動を行うというものです。

 

(義烈空挺隊とは)

義烈空挺隊は1944年(昭和19年)11月に結成されました。
当時サイパン島が陥落しB-29による首都圏への爆撃が可能になったため、サイパン
空挺部隊を乗せた航空機で強行着陸し、敵の軍用機を破壊する奇襲作戦が計画されます。

この空挺隊は当初は「神兵皇隊(すめらたい)」と名付けられ、隊長には挺進第1連隊から奥山道郎大尉が選ばれます。また、この部隊には陸軍中野学校出身の諜報員10名も含まれていました。

彼らは、強行着陸後に破壊活動を行ったあとも現地に潜んでゲリラ戦を行い、敵に多くの損害を与える事が任務となりました。

空挺隊を運ぶのは第6独立飛行隊で、隊長には諏訪部忠一大尉が選ばれました。

1945年(昭和20年)神兵皇隊は、名称を「義烈空挺隊」に変更しました。

しかし戦況の悪化で目標地がサイパンから硫黄島、さらに沖縄へと変更になりました。

(沖縄の飛行場に殴り込みをかけろ!)

1945年(昭和20年)4月1日、米軍は沖縄本島への上陸を開始し、その日のうちに

北飛行場(後の読谷補助飛行場)と中飛行場(現:嘉手納飛行場)の両飛行場を占領します。

それに対し軍上層部からは「米軍に制圧された飛行場を奪回してほしい」との要請が

ありました。

そこで、厳しい訓練を受けた義烈空挺隊が沖縄の北・中飛行場へ強行着陸し、破壊活動を行い攪乱している間に、陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという

「義号作戦」が計画されました。

さらにその第2段階として、義烈空挺隊は、米軍が占領した飛行場を破壊した後には、北飛行場の東北約5キロの地点にある「220・3高地」付近に向かいゲリラ戦を展開することも計画されていました。

 

(熊本健軍飛行場から沖縄に出撃)

「義号作戦」の任務遂行のため義烈空挺隊と、飛行機操縦を担当する第3独立飛行隊が、熊本の健軍飛行場へと集結します。

 

作戦の決行日は当初は5月22日が予定されていましたが、天候不良のため2度延期されます。

義烈空挺隊を率いるのは、写真中央の奥山道郎隊長です。

出撃を直前に控え握手を交わす奥山隊長と諏訪部編隊長。

1機の爆撃機に義烈空挺隊員14人が乗り込みます。

 

午後6時40分、諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃します。

目指す目的地は約750キロ離れた沖縄です。

 

【義烈空挺隊の出撃を報じる当時のニュース】

 

(沖縄に強行着陸)

1945年(昭和20年)5月24日午後6時40分、12機の爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃しましたが、沖縄に向かう途中で、故障などの原因で爆撃機4機が引き返します。

 

同日午後10時11分、諏訪部機より突入を知らせる無電があり8機が、北、中両飛行場に突入を試みます。

そのうちの1機が北飛行場に胴体着陸します。突入に成功したのはこの1機だけで、

残る7機は途中で撃墜されました。

無事沖縄に強行着陸した隊員たちは、機体から飛び出し、留めてあった米軍の飛行機を破壊します。

米軍側の被害は戦死者2人、飛行機33機の損失でした。

北飛行場は翌25日午前8時まで使用不能となりました。

     【沖縄に強行着陸した後の九七式重爆】

翌日の昼、空挺隊員の1人が残波岬で米軍に射殺されています。彼は読谷山岳に集結して、ここからゲリラ戦を展開しようとしていたのです。

義号部隊は総勢168人のうち、引き返した4機に乗っていた56人を除いた112人全員が

死亡しています。

・・・・ということで

5月24日は義烈空挺隊が出撃した日です。